まりびと:富澤清太郎&藤本淳吾(後編)
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Text by 二宮寿朗


 横浜F・マリノスに戻ってきた2人のOBがいる。長年の現役キャリアにピリオドを打ち、スタッフとしてサッカーに対して変わらない情熱を傾けている。後編は2021年シーズン限りで引退し、横浜F・マリノスのスクールコーチを務めた後、23年からはチーム統括部強化担当としてトップチームに関わる業務を行なっている富澤清太郎のストーリー。一つひとつを武骨にこなしていこうとする姿は、どこか現役時代と重なる――。

 後輩の藤本淳吾曰く、「カンペーさん(富澤清太郎の愛称)を一言で表現するなら、さんずいのほうの漢(おとこ)」。引退してF・マリノスのスクールコーチに就任する際も富澤に相談している。誰からも頼りにされるのは、彼の漢気ある人間性ゆえだろう。
「淳吾に大したアドバイスなんてないです。ただサッカーって〝止める蹴る〟のところから始まるじゃないですか。やっぱり指導の基礎が詰まっていて、僕のなかではそこをすっ飛ばしてしてはダメだなと思って自分自身、スクールコーチをやらせてもらったんです。その経験を伝えただけ。淳吾の指導を見ていると、1年前の僕とは全然違くて、凄くうまくやっていると思いますよ」
 スクールを離れても仕事の合間を縫って後輩の指導法を見届けるあたりが、何とも富澤らしい。

 熱血漢であり、硬骨漢であり――。
 東京ヴェルディに復帰した2021年シーズン限りで現役を引退。セカンドキャリアはまったくノープランだったという。
「長く現役をやっているなかで、一日一日が勝負。他のことを考える余裕なんてなかったです。プロサッカー選手として徹底して打ち込んでいきたいと思ったし、これまでも嘘偽りなくそういう生き方でやってきましたから」
 これから自分は何をやっていけばいいかと考え始めた矢先、古巣のF・マリノス側からコンタクトがあった。定期的に連絡を取ってきたわけではなかっただけに驚いた。
「もちろんうれしかったですよ。(引退して)自分に何ができるのかと言ったって、サッカーしかない。やるなら指導の根っこの部分からやらなくちゃいけないという話をしたところ、スクールコーチというお話をいただいたんです」
 サッカーに対して真摯に向き合う姿勢そのものを買ってもらっていた。自分の意思も尊重してくれ、断る理由などなかった。
 毎日が充実していた。スクールの子どもたちにサッカーを教えることがすぐさま喜びになった。
「その子の何かいいところを見つけて、自信として持っているものや特長を自分が拾ってあげてそれをもとにコーチングすると、その子がいきいきとサッカーをやるんですよね。その瞬間がとても幸せに感じました。ちょっと人見知りだった子が、僕に絡んでくるようになったりして。何かその子のハマるような教え方をしてあげると、どんどんといいほうに変わっていくんだなって感じました。
 キック一つとっても、最初はやれなくても、今できることをちょっとずつ積み上げていく。一日一日の積み重ねが大事なんだよってことは情熱を持って伝えていったつもりです」

 スコールコーチを始めて半年ほど経つと、自分なりの指導というものが見えてきた気がした。周囲の助けも借りながら、自分で勉強しながらまさに一日一日を積み重ねていくことで指導者としての自信も芽生えてきた。
 そんな折、チーム統括部からお呼びが掛かる。慣れてきたコーチ業に後ろ髪を引かれる思いがなかったわけではないが、チームのOBとして強化担当に迎えられたことを「必要とされるところで熱中できればいい」と前向きに捉えた。
 強化担当の業務は多岐に渡る。
「選手のリクルーティングで、Jリーグや学生をしっかりと見ておくことは大切ですし、F・マリノスのゲームの振り返りでレポートを出すこともやります。ただ一番は、トップチームの選手たちのサポート。やっぱり選手が、一番過酷ですから。僕も通ってきた道ではあるので、年齢によって、状況によって何に悩んでいるか、どれだけ苦しいか理解できる。コミュニケーションを取りながら一生懸命、サポートしていきたい。そう思ってここまでやってきているつもりではあります」
 やるべきことがありすぎるくらいでちょうどいい。選手たちのサポートを最優先に置き、トップチームのために身を粉にする。選手目線に立って、選手に寄りそう。富澤はチームを広く見渡し、選手一人ひとりを見守ろうとしている。

写真:アウェイ試合視察と期限付き移籍選手とコミュニケーションをとる富澤

 何をやるにしてもこの人には「芯」がある。無論、現役の頃からそうだった。
 30歳を迎える2012シーズンを前に、当時J2のヴェルディからやってきた。自分の殻を破るためのチャレンジでもあった。
「年齢としてはギリギリというか遅いんですけど、日本代表であったり、タイトルであったり(を意識して)初めて代理人をつけたときに、F・マリノスからのオファーがありました。もうすぐにそこは行きたい、と心の声に従いました」
 チームメイトの意識も技術も高く、日々ピッチに没頭できる自分がいた。持ち前の負けん気の強さを前面に押し出し、出場機会を増やしていく。
「(移籍初年度の)2012年で言えば、途中からチームとして軌道に乗っていく感じがありましたね。中心にシュンさん(中村俊輔)がいて、そして(コンビを組むボランチに)中町(公祐)、兵藤(慎剛)がいて、彼らはボールを前に運べて、失わない。攻撃はある程度任せつつ、僕は後ろにいて三角形をつくってバランスを取りながら前で相手のプレッシャーが掛かってきたら落としどころになる。ここは凄く意識しました。守備のところではボンバー(中澤佑二)と(栗原)勇蔵がいたので、彼らの前を空けないこと。僕は元々ボールを持つ相手にアタックしたい気持ちが強いし、頼もしい2人が後ろにいるから迷うことなく奪いにいけました」
 翌2013年シーズンは開幕から6連勝を飾り、最高のスタートを切る。富澤は第5節、アウェイでのサンフレッチェ広島(4月6日)においてミドルシュートを豪快に叩き込むと、続く第6節、ホームの川崎フロンターレ戦では中村俊輔が蹴る右CKからヘディング弾を決めている。守のみならず攻における強みもより発揮するようになっていた。
「それぞれの個性がいい形で融合していたように思います。チームのためにプレーできる選手たちが多くて、すり合わせながら戦っていました。前年以上にどことやっても負ける気がしなかった」

 優勝に王手を掛けて臨んだのが、第33節、ホーム最終戦となったアルビレックス新潟戦だった。Jリーグ最多となる6万2632人が日産スタジアムに来場。異様な盛り上がりを見せるなか、0-2で敗れてしまう。悔しそうに顔をしかめる富澤がいた。最終戦のアウェイ、フロンターレ戦も0-1で落とし、目の前にあったリーグ優勝が消滅した。
「振り返ってみると(練習を取材に来る)メディアが増えたり、サポーターも盛り上がったり、いつもの景色が変わっていました。僕はいつもどおりでいこうと思っていましたけど、もうその時点でいつもどおりじゃないんですよね。シーズンというものは最終節が終わって決まるもの、最後まで走り切った後に結果として出るもの。今なら当たり前だと思うことが、当時は頭から抜け落ちていたのかもしれません。悔しい思いをしながら、自分に何が必要だったかを自然と頭のなかで探していたと思います」

 優勝を奪われた森保一監督率いるサンフレッチェに対し、東京・国立競技場で開催された天皇杯決勝で借りを返した。富澤の気迫は凄まじかった。
「もうそこは男としてのプライドです。勝って(気持ちが)収まるわけじゃないですけど、絶対に叩きつぶすっていう思いでした。あのときは意地でした」
 負けん気を最大限に発揮して全力でファイトする「日吉のヒーロー」。武骨なプレースタイルはファン・サポーターから愛され、チームメイトからも信頼された。

 富澤は「新たにチャレンジしていくタイミング」として2015年シーズン途中でクラブに別れを告げる。ジェフユナイテッド千葉、アルビレックス新潟、SC相模原、そしてヴェルディといくつものクラブを渡り歩いた。
 優勝を逃がしたあの経験は相模原がJ2に昇格する際に活きたという。
「最後の最後まで競っていて、本当にあのときと状況が似ていました。学んだことを自分のなかに落とし込んでいったら、自分のなかでつながったんです。このクラブだって同じだと思うんです。選手だけじゃなく、スタッフも、会社の人もみんな悔しい思いをした。最後に逃がした経験があるから、2019年、2022年の優勝につながったような気がします。やっぱり一個一個の積み上げ。そうすることで確かなものになっていく。2013年の出来事が役立っていたのならうれしいですよね。僕としても人生の財産になっています。そうやって人は学んでいく、成長していくものだと思っていますから。それを教えてくれたのがサッカーなので、やってきて良かったなって本当に思いますよ」
 悔しい経験を活かしてこそナンボ。漢・富澤の顔にはそう書かれてあった。

 やり甲斐は自分でつくっていくもの。彼を眺めているとつくづくそう思う。
 強化担当としていろいろな場所を駆け回ってリクルーティング活動をし、試合レポートを書きつつ、選手たちのサポートを欠かせない。多忙な毎日も気にならないほど、一日一日を積み重ね、一個一個を積み上げてきた。昨日よりも今日、今日よりも明日。やること、やれることが広がっていく分には大歓迎だ。
「実際にこのクラブのなかに入ってみて、たとえばアカデミーひとつ取っても、1ランク上、2ランク上にあると感じています。その理由としてはプロフェッショナルが多い。もちろんアカデミーだけじゃありません。グローバル化が進んでいる今、そうやって土台を築き上げた人たちとともにさらに上へとF・マリノスを前に進ませていきたい。そのためにも自分自身、一日一日をしっかりやっていかなければなりません」
 富澤の口調が自然と熱を帯びる。
 最後に一つ、聞いてみた。
 富澤清太郎にとって、横浜F・マリノスはどんな場所なのかを。
 しばしの沈黙の後、前のめりになった。
「夢中にさせてくれる場所です。去年も今年もそうです。仕事に没頭できる、僕にとって大切な場所」
 漢は、うれしそうにそう言った――。