まりびと:榊原彗悟&山根陸(後編)
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Text by 二宮寿朗


 横浜F・マリノスの育成組織で培ったものをベースに2024年、飛躍を誓う若者たちがいる。23歳の榊原彗悟と20歳の山根陸。後編は2023年シーズン終盤において先発に定着し、成長著しい山根のストーリー。プライマリーに加入当初は、内気な少年だったという。サッカーを通じて自立していき、ジュニユース、ユースそしてトップチームへと階段を駆け上がっていく。冷静沈着と情熱をプレーに落とし込み、才能を開花させつつあるリクの原点――。

 山根陸は昔、内気な少年だった。
 地元は川崎。8歳上の兄の影響で6歳からサッカーを始める。本格的にサッカーをやりたいという陸少年の希望もあり、母親が送り迎えできる場所と時間としてはちょうどいいとの理由でマリノスサッカースクールを選んだ。
 そして、小学3年生に上がるタイミングでF・マリノスのプライマリーに入ってくる。
 新しい環境に飛び込んではみたものの、戸惑うことしかなかった。挨拶をしましょう、自分で準備をしましょう、荷物を運びましょう—―。自立の入り口に立たされ、抵抗感が体中を走った。
「楽しく、好きなようにサッカーをやってきたのに(環境が)ガラリと変わりました。挨拶とかルールとかそれまで言われたこともないし、小さいころは引っ込み思案とまではいかないまでも進んで何かをやるような子じゃなかった。甘えん坊で何か一人でやるなんて無理でした。いきなり大人びた世界に入っていく感じがあって、最初のころはたまらなく嫌で、不安で、泣きながら練習に行っていましたね。ましてやレベルの高い環境に入って、高い要求をされると周りの子は普通にやれているのに、自分はできない。劣っていると感じていたので、精神的にもきつくて苦しかったです」
 嫌でたまらないのに、涙があふれるのに、マリノスタウンに通うことをやめなかった。山根は「田端コーチが引き上げてくれたおかげ」と一人のコーチの名前を挙げた。

写真:前列の背番号5が山根

 今から12年前、8歳の山根が入ってきたころを、現在スカウト担当の田端悠はよく覚えている。
「不安が顔つきから出ていました。悩んでいるんだろうなって。こちら側が助けてあげて、ではなくて、自分が一歩足を踏み出していくというところでは優しさよりも厳しさで見守っていくというスタンス。時間を守るとか、自分で着替えるとか甘えがないように進めていきました。陸のお母さんが〝いろいろと本人から相談されるけど、前向きに送り出すしかできません〟という話をされていて、我々のほうも〝そうしてあげてください。こちらで迎え入れたら一生懸命やらせますから〟と伝えていました。
 陸はもの凄くやさしい子で、真面目で、みんなからも愛されていました。ひとたびサッカーをやれば、集中するし、一切手を抜くこともない。コーチに話を聞いて自分で解決しようともする。だから早い段階で(自立を)クリアしていった印象も強くあります」
 田端にも「泣き虫」のイメージが残っている。ただそれは不安から来るものから責任感によるものに変わっていったようだ。
「ちょっとずつ慣れてきたときの最初の大会。陸のミスで失点して、グラウンドのなかで泣いてしまったことがありました。僕も〝泣くんだったらグラウンドを出なさい〟と言いました。自分ができないこと、チームができないことに対して、どうにか解決しなきゃって真剣に考えていた子で、だからいろんなことで泣いてしまっていたのかな、と」
 悔しくて、みんなに申し訳なくて。その一つひとつの涙が、山根少年をたくましくしていく。4年生になるとリーダーシップを発揮するようになり、ある試合のハーフタイムで田端が「このままだと負けるよ」と伝えたら「絶対勝ちます」と噛みついて、そのとおりになったこともある。チームメイトを巻き込み、全体の力を引き出していく力があった。


 あの泣いていた日々は一体どこへやら。
 小学校の高学年になると、楽しい記憶しかない。練習が終わっても名残り惜しくボールを蹴り、特に試合のない土日は朝に練習して、マリノスタウンで昼食を摂って、午後は自主練習と気がつけば一日中ずっといた。ユースがそこで試合をやっていればみんなと観戦した。みんなと鬼ごっこや、ろくむしもやった。ジュニアユースやユースの先輩たちに遊んでもらうこともあった。中村俊輔がFKの練習をすれば、トレーニング用につくられた「坂」にのぼって目に焼きつけた。
 自立もどんどん進んでいく。ボールや用具の用意、管理に始まって水筒の氷、クーラーボックスの準備も慣れたものになっていた。ビブスを洗濯する間にもボールをもうひと蹴り。やらされるのではない。あくまで主体性を持って取り組むことによって、工夫が生まれ、効率も良くなる。雑用も含めすべてを楽しめた。
 考えるクセをつける材料として〝目標ピラミッド〟なるものがあった。
「チームのほうから紙のシートを配られて、自分の得意なプレーや苦手なプレーを書き込んで、たとえば苦手を克服するためにはじゃあ何をやるのか、自分で考えるんです。そういうのを繰り返していくと考えるクセが習慣になりました」
 小6になるとキャプテンに就任する。現役時代にいぶし銀のユーティリティープレーヤーとして知られた永山邦夫コーチと、選手の間に入ってパイプ役を務めることも山根の役割となった。ピッチ内に限らず、遠征中の生活面などピッチ外も、山根が選手たちを集めてみんなで話し合っていろいろなことを決めた。子供同士が意見をぶつけ合うとちょっとしたケンカに発展することもあり、キャプテンが仲裁に入ってまとめることもしばしば。意見がまとまらなかった場合は永山に相談し、コーチも入ってのミーティングとなる。永山が見守ってくれたことも、自立を促す一つの要因となった。
 山根は心に残るプライマリー時代の思い出として、小6夏のベルギー遠征を挙げる。
「みんなで初めての海外遠征で、それ自体が冒険のようでした。食べ物も雰囲気も風景も、何もかもが日本と違う。町も何だか凄く良くて、このときから〝将来、ヨーロッパでプレーしたい〟って思うようにもなりました。
 忘れられないエピソードもあります。朝10時からの試合に合わせて(合宿先で)朝食を摂るんですけど、シェフが全然やってこない。どうも寝坊したみたいで、不貞腐れたようにやってきて、待たされた挙句にコーンフレークが出てきただけ(笑)。今でもプライマリーのみんなで集まったら、結構その話でいつも盛り上がるんです」
 思い起こすだけで山根の表情が自然と緩む。泣いたのは「入り口」だけだった。


 しっかりと自立し、考えるクセ、吸収力を身につけたうえでジュニアユースに昇格すると、ここでも指導者との出会いが山根を成長させていく。すぐに飛び級でU―14のチームに入っている。
「菊原(史郎)コーチは実際、一緒にミニゲームでプレーしても〝凄いな〟って思えました。F・マリノスのトップチームでプレーした金子(勇樹)コーチ、大橋(正博)コーチたちもそうですが、人とは違うプレー感覚を持った人の言葉を聞けたり、指導を直に受けたりできたのもかなりプラスになったと思います。
 菊原コーチからは、みんながどんなことを考えているか知りたいからノートを提出してと言われて、そこから書くと(自分の考えを)整理できるなって思って、忘れちゃいそうだからとノートをつけ始めたのもちょうど中1のころでした」

写真:ジュニアユース時代の山根

 順調に成長を遂げ、U―15日本代表にも選ばれる。ユースに昇格してからも各世代において代表、または代表候補ともなり、F・マリノスユースの代表格なっていく。ただケガやコロナ禍もあって思ったようにサッカーに打ち込めなかったのも事実であった。
「高1の夏に大ケガをして翌年の春に復帰しようとしたらちょうど新型コロナウイルスの感染が広がる時期と重なって、サッカーをやれるまでに結局1年くらい時間が掛かってしまいました。だから高2はパフォーマンスを戻すだけで結構精いっぱい。高3になってもケガがあってなかなかコンディションが戻らないなりに、そのなかでできることをやっていきました」
 アンジェ ポステコグルー監督が率いるトップチームの練習にも参加した。レベルの差を感じていたし、コンディションも今ひとつとあって大学進学も真剣に考えていた。高3の秋に強化部との面談があり、トップチームでプレーするか、それとも大学に進学するか自分で選んでほしい、と言われたという。
 悩みに悩んだ。「君は努力できる人」という強化部からの評価に背中を押されたのは確かだが、自分の気持ちと正面から向き合い続けて答えを出した。
「F・マリノスのトップチームでプレーするっていうずっと目指してきたものが目の前にある。だったらチャレンジすべきなんじゃないかって覚悟を決めました」
 2022年シーズン、山根は西田勇祐(現在はAC長野パルセイロに期限付き移籍中)とともにユースから昇格。1年目から勝負するという決意を持って、トップチームに飛び込んだ。

 思っていた以上に、ハードルは高かった。
 前年の2021年シーズンは連覇した川崎フロンターレに大きく引き離されての2位にとどまった。ケヴィン マスカットのもと奪冠に燃えるチームに、ついていけない自分がいた。
「1月はもうボロボロでしたね。もう何もできない。宮崎キャンプで(実戦の)練習メニューになかなか入れないし、入れたとしてもレベルが追いついていかないし、足引っ張るだけでしたから」
 へこみはしたが、高いレベルのなかに入ってのトレーニングは何よりも刺激的だった。ボランチはキャプテンの喜田拓也、岩田智輝、渡辺皓太、藤田譲瑠チマら実力者ばかり。吸収して、考えて、自分なりに答えを出して。それはF・マリノスの育成組織で学んだこと。一つひとつ、コツコツとクリアしていこう――。そのマインドを持って、地に足つけて日々を過ごしていく。
 ある日の練習試合、自分でもちょっとした手応えがあった。この試合を機にマスカットから直接アドバイスをもらえるようになったという。やれることが少しずつ増え、監督の関心が多少なりとも自分に向き始めていると感じると練習にもより力が入っていく。
 そして、思いがけずJ1デビュー戦がやってくる。
 3月2日、ホーム日産スタジアムでのヴィッセル神戸戦。

 喜田、渡辺がベンチから外れたなか、藤田とのコンビでボランチに入った。ボールを積極的に受け、前を向き、運び、さばいた。守備でも体をぶつけてピンチを防ぐなど、18歳とは思えないほどの落ち着きぶりであった。
「日産スタジアムで、それもあんなにお客さんが入ったなかでの公式戦にいきなり出たわけですから、確かに(ボールを)受けるのは怖いところもあります。でも1回自信を持って前を向ければ変わるかなって。自分のプレースタイル的にしっかり受けて前に運ぶっていう部分をケヴィンも買ってくれていたと思うので、そこはもう出していこうと思っていました。
 ウチで出ているボランチのみんなと比べたら、プレーはちょっと怪しかった(笑)。それなりに通用するなっていうプレーもありました」
 18歳のボランチは、90分間フルタイム出場を果たして、2-0勝利に貢献する。足もつることはなかった。「きつかったし、時間は長く感じた」ものの、自分の役割をやり遂げた。
 藤田やトップ下に入った西村拓真をはじめチームメイトにも助けられた。周りのおかげだと心から思えた。そしてもう一人、コーチとして支えてくれるショーン オントンの存在を抜きには語れない。
「ショーンはいつも気に掛けてくれますし、自分の成長をサポートしてくれます。ポジティブにさせてくれるし、このデビュー戦のときも凄く助けてくれました」
 ルーキーイヤーはリーグ戦11試合に出場。しかし8月7日のアウェイ、川崎フロンターレ戦を最後にリーグ戦ではメンバーに絡めなかった。
 最終節、ヴィッセル神戸とのアウェイマッチをスタンドから眺めた。優勝を決め、どのような思いだったのか――。
「みんなと毎日一緒に過ごしてきて、練習をどれくらいの強度で、どれくらいのレベルでやっているのか分かっているし、みんなの練習に臨む姿勢、練習以外の時間の使い方とか日常を見ても、そりゃ優勝するでしょって思ったところもありました。ACLもラウンド16で負けていて、チームとして悔しいものがあったなかでも前を向き続けて、ああやってJ1で優勝できて、プロ1年目でいろんなことを学べました。確かに(終盤戦は)試合に絡めていなくて、貢献できたことは少ないかもしれないけどF・マリノスの一員として優勝を味わえたことはもの凄くうれしい気持ちでいっぱいでした。
 あとは選手として凄いなっていう気持ちですね。僕なんて1試合出るだけで精神的にもかなりパワーを使うのに、同じポジションの喜田くん、ナベくん、譲瑠くんたちは連戦で、それも1年通してやり続けて、そのうえで結果を出して。自分はどうすればそこにたどり着けるんだろう、と。まだまだ試合に出られるレベルじゃないし、足りないものがいっぱいありました」
 優勝するためのスタンダード。チームとしても個人としても、それがどこであるか掴めただけでも大きかった。

 2年目の2023年は山根にとって忙しい1年となる。
 3月にはU-20日本代表としてU-20アジアカップ(ウズベキスタン)に参加し、ベスト4まで勝ち進んでU-20ワールドカップ出場権を獲得する。帰国後、チームに戻ると4月8日のホーム、横浜FC戦から3試合連続で先発。連戦でも変わらないパフォーマンスを発揮できるようになった。
「意識したのはとにかく自分のすべてを出し切ること。あまり気負いすぎず、今日どんなプレーしようとか考えすぎないようにもしました」
 そして5月、アルゼンチンで開幕したU-20ワールドカップ本大会に出場。世界一を目標に掲げながらも、グループリーグ敗退に終わった。悔しさばかりがこみ上げた。
「中学1年のころから〝君たちはU-20ワールドカップ世代〟と言われてきて、みんな目指してきたし、自分もそうでした。最後のほうはチームの中心となってやっていくなかで、ここに懸ける思いは凄く強かった。だからこそ悔しいし、思い出したくもない結果になってしまってショックでした」

 この苦い経験を、糧にしていかないと意味がない。F・マリノスでサッカーに明け暮れて徐々に出番を増やし、秋に入ってからは先発に定着していく。
 山根ここに在り、はっきりとそう示したゲームが9月24日、アウェイでの鹿島アントラーズ戦。逆転優勝に向けて絶対に落としてはいけない2、3位の上位対決となった。
 先制される苦しい展開ながら、山根が積極的にボールを受けてリズムをつくったことで自分たちのペースを引き込んでいった。
「先制されてあのままズルズルいくとは思わなかったですね。(ビルドアップで)真ん中に居続けることも大事ですけど、ボールを受けられるポジションを取ってみたり、無駄でもいいからとにかく受けてみたり、ボールをいっぱい触ろうと思いました。ただ、ナベくんと自分の距離感だけは変えないように意識しました。そうしたら徐々に相手も出てきてくれて、間も空き出して自信を持ってビルドアップをやれるようになりました。前半のうちに同点に追いつけたことでチーム的にもいい雰囲気になりました」
 そして迎えた後半5分。相手のクリアボールを山根がヘディングで回収し、スルスルと前へ。アンデルソン ロペスのシュートが当たってこぼれてきたボールを、ペナルティボックス内で受け取り、右足でシュートを打つかと思いきやヤン マテウスへのパスを選択する。シュートを呼び込み、最終的にアンデルソン ロペスの勝ち越しゴールに結びつけた。
「あれはキックフェイントではなく、キャンセル。打つのをやめたらちょうどヤンが走ってきたので渡しました。一瞬の感覚でしたね」

 冷静にプレーしつつも、熱さを忘れないのも彼の特長だ。アントラーズにそのまま2-1で勝利。陰に陽に、山根の働きが実に効いていた。明らかに1年目とは違う心身ともに随分とタフになった山根がいた。
 次節、ホームで迎えた首位ヴィッセルとの天王山は0―2で完敗。結局、トップの座を奪い返すことはできず、2位でリーグ戦を終えた。山根に悔しい経験が、また一つ増えた。

 2024年シーズンに懸ける思いは強い。
 ホップ、ステップと来て、ジャンプするためのプロ3年目。同じボランチには育成組織時代の3つ上の先輩、榊原彗悟もいる。
「彗悟くんは育成時代からずっと見上げてきた人。技術やセンスには卓越したものがあって、凄いなっていつも思っています。もちろん彗悟くんと僕だけじゃないですけど、自分たちが価値を上げていくことができれば、必然的にアカデミーの価値も、クラブの価値も上がっていくはず。F・マリノスは言うまでもなく僕にとって成長させてもらった大切なクラブなので、活躍することで、このクラブの価値を上げていきたいですね」
 若い力がF・マリノスの未来をつくる。
 アカデミーで学んだ教えを胸に、山根陸がその先頭に立つ――。