
Text by 二宮寿朗
ゴールを決めれば、右腕に力こぶをつくるゴールセレブレーション。
アンデルソン ロペスがそれをひとたび繰り出すたびにトリコロールの住民は歓喜に湧き、合言葉を心で口ずさむ。
ヤレバデキル!
「ポーズに合う日本語はないかって、シンジ(木下伸二通訳)に聞いたんです。厳しい試合であったり、自分の限界であったり、それらを乗り越えてゴールを決めたときの〝強さ〟を僕のなかでは示している。それを説明したら〝ヤレバデキル!〟と。響きもいいし、ファン・サポーターのみんなも喜んでくれるんじゃないかって。凄くしっくりときました」
2022年シーズン、横浜F・マリノスにやってくると3年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献し、23年には22得点、24年には24得点を挙げて2年連続J1得点王に輝いた。連続得点王はJ史上4人目でいずれも20得点以上となると初めてのケース。〝クラブ史上最高のストライカー〟との呼び声が高い。
アンデルソン ジョゼ ロペス デ ソウザは1993年9月15日、ブラジルの港湾都市レシフェで生まれた。
幼いころからサッカーが大好き。母親から誕生日にサッカーボールをプレゼントされ、飛び跳ねて喜んだことを覚えている。
「父も母も『最初にサッカーボールに触れたときから才能があると感じた』と口をそろえて言ってくれていました。母からボールをもらってたまらなくうれしかった。でもスポルチ・レシフェのファンだったのに同じレシフェのライバルチーム、サンタクルスのマークが入ったボールだったんです。どうしてサンタクルスのほうなの!という思いで強く蹴ったら、ファーストシュートでパンクしてしまって」
ひと蹴りでボールをつぶしてしまうほどのキック力。自分も母も驚いたことは言うまでもない。
生活は楽ではなかった。両親が離婚したため、母が働きに出て一家を支えたという。
「シングルマザーの家庭で、母は家計を保つために頑張って働いてくれました。僕の面倒を見てくれたのは姉。食べることに困るほどではなかったにせよ、あの頃を振り返ってみてもギリギリ(の生活)で大変だったとは思います」
地元のサッカークラブでも活躍するロペス少年は、祖父からいつも期待の声を掛けられていた。
「おじいちゃんにはよくスタジアムに連れていってもらったし、『お前はプロになれる。プロになるんだ』と言ってくれていました。だから僕自身、小さいときからプロのサッカー選手になることを目標にしました」
12歳のときにレシフェを離れ、ポルト・アレグレにあるサン・ジョゼの育成組織に入る。そして3カ月ほど経て名門インテルナシオナルに移る。
「寮生活では規律に厳しいクラブでした。就寝時間や生活面全体にルールがあって、最初は慣れなかったんですけど、プロになっていくためには必要なことを学べた気がします」
ロペスのポテンシャルを評価してくれていたのが4つ年上のフォワード、ヴァルテルだったという。2009年の南米ユース選手権では得点王となってチームを優勝に導いている。
「僕は主にトップ下でプレーしていたのですが、体格がどんどん大きくなってきて、ヴァルテルから『フォワードでやってみたらどうだ』とアドバイスをもらいました。サン・ジョゼから引っ張ってくれたのも彼の働きがあったから。クラブにも影響力を持っていた人で、クラブにもそのことを伝えてくれて自分のポジションがセカンドストライカーになっていったんです」
尊敬する先輩にも認められており、インテルナシオナルのトップチームと契約できることを疑わなかった。しかしその目標にはたどり着けなかった。
「トップチームに行って当然だという、今思えばナメた考えを持っていました。鼻をへし折られた感じがありました。昔と今では(サッカーに対する)メンタルが違っていて、このままじゃダメだ、もっと頑張らなきゃいけないと思うことができました」
気持ちを入れ替えてサッカーに向き合い、道を切り拓いていく。かくして18歳でサンタカリーナ州にあるアヴァイとプロ契約を結ぶに至る。その後プレーで得た報酬で故郷のレシフェでマンションを母にプレゼントしている。祖父との約束を果たし、母の力になりたいという思いが実った。
「プロになると決めてレシフェを離れる際、空港で母に言いました。『ここから旅立って数日、数カ月で帰ってくる人はいる。でも僕は年に1回のオフまで帰ってこない。そう思っていてください。そしてプロになって必ず家を買う』と。それが僕のモチベーションでした。インテルナシオナルのトップチームにいけなかったけど、プロになってマンションを買うことができた。ただどうしても母は祖母の近くがいいということで、そこにも新たな家を買ったのですが(笑)」
プレゼントになぜかオチがあるのは別としてロペスはブラジル国内で徐々に評価を高め、アヴァイではセリエBからセリエA昇格にも貢献する。粗削りだが、そのポテンシャルは買われていた。2016年、所属元のトンベンセからアトレチコ・パラナエンセに期限付き移籍でプレーしていた際にトルコのクラブからオファーが舞い届いた。欧州移籍に喜んだのは一瞬。首都イスタンブールの空港でテロが発生したため、家族に心配を掛けないために移籍を取りやめることにした。しかしストーリーには続きがあった。サンフレッチェ広島への移籍を打診されたのだ。日本を知る何人かの関係者に相談すると皆に勧められ、当時の森保一監督と通訳を交えて直接話をしたことも決め手になったという。
「監督に『僕を必要としてくれていますか?』と聞きました。そうしたら『海外に行く浅野(拓磨)の代わりに前線に入ってほしい』と言ってもらえて。不安なく日本に行くことができたんです。
チームのすべての人が僕を温かく迎え入れてくれました。それこそ森保監督は『日本のこの料理、食べてみてよ』とか、いろいろと僕のことを気に掛けてくれましたから。ただサッカーの話で言えば練習では〝すぐにやれそうだ〟と思っていたのに、最初にスタジアムで試合を観たときに〝このレベルに自分は達していない。2、3歩後ろにいる〟と感じました。サッカーも、フィジカルもレベルが高く、驚いたものです。だから頑張らなきゃいけないって。もう一つびっくりしたのは、週に何回か2部練習があったこと。練習で足をつるなんて初めてでしたから(笑)」
2016年夏に加入後、わずか7試合の出場にとどまる。当時はまだ23歳。アジャストに時間が掛かるなかでも彼が日本のサッカーに溶け込もうと前向きに取り組めたのは、広島の環境に加えて1トップに入ってその年に得点王となるピーター ウタカの存在であった。
「プレーでもこんなふうにやってみたらいいんじゃないかとか、日本で成功を収めるためにいろいろなアドバイスをくれました。彼はチーム全体からリスペクトされる存在であり、彼の言葉、行動を見て学ことができました。僕がこうやってJリーグでやれているのも、彼のおかげです」
ポジションはシャドー、サイドハーフが中心。2年目の2017年はチームが残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなったものの、ロペスは2ケタの10得点を挙げている。
韓国1部FCソウルへの移籍が決まり、日本でのチャレンジはここで終わりかと思われた。すると今度はミハイロ ペトロヴィッチ監督率いる北海道コンサドーレ札幌にやって来る。ここでは1トップで起用され、現在のような力強いストライカー像を確立していくことになる。
「僕を今のポジションに持っていってくれたのがミシャ監督。学ぶことがたくさんあり、プレーの幅も広がりました。本当に尊敬できる人です。その一方で自分がいいプレーをしたと思っていてもメンバーから外されるなど、こちらとしてもメンタルを強く保っておかなければなりませんでした。3年目(2021年)はチームを離れる決心を固めていたのですが、ブルーノ(クアドロス)コーチが『負けるな。俺を信じて戻ってこい』と言ってもらえて吹っ切れました。半年でしたがベストな活躍ができたんじゃないかと思っています」
2021年は前半戦だけで12得点を挙げて、そのうえで夏に中国1部の武漢へ移籍する。しかし半年後、彼は三たび日本にやってくることになる。横浜F・マリノスからのオファーと聞いて、心が躍る自分がいた。
「凄くうれしかった。日本でプレーしてきて伝統のクラブであることはもちろん知っているし、何よりアタッキングフットボールに自分はフィットするという確信がありました。もちろん不安がないわけじゃない。1トップにとてもいい選手たちがいて、自分のポジションを勝ち取らなきゃいけないので」
相思相愛。F・マリノスのアンデルソン ロペスがここに誕生する――。
ファーストインパクトは大きかった。
2022年2月19日、日産スタジアムで行なわれたセレッソ大阪との開幕戦。先発したレオ セアラに代わって後半21分から出場して自らの突破で仲川輝人のゴールをアシストすると、今度は相手のクリアボールを拾って左足でゴールを奪った。
フィットするという己の確信どおり、前線でパスを受けて分厚い攻撃を促す役割を担いつつフィニッシャーとしての高いシュート精度を見せつけていく。チャンスを得点に結びつけていくことでゴールを重ねて先発の機会を増やしていった。だが彼は4戦連発中で臨んだ5月21日のアウェイ、アビスパ福岡戦で失態を起こしてしまう。ボールの関係ないところで相手ディフェンダーの胸にツバを吐いたとしてレッドカードで退場処分となったのだ。
Jリーグからは6試合の出場停止処分と罰金処分を受け、クラブもその期間内になる天皇杯を出場停止にする独自処分を下している。
彼はプライベートで離婚の問題を抱えていて、ピッチに集中することが難しかったという。ケビン マスカット監督にそのことを打ち明け、一度ブラジルに帰国することを願い出ると指揮官から許された。ツバ吐き行為を心から反省するとともにブラジルで問題を解決させたことで気持ちをスッキリさせて日本に戻ってきた。
「プレーするには難しいメンタルの状態でした。そのなかでああいうツバ吐き行為をしてしまって……キャリアのなかでそんなことをしたこともないし、今思い返してみてもなぜあんなことをしてしまったんだろう、と。ケビン監督があのとき(帰国に)OKを出してくれたことが救いになりました。クリアになってサッカーだけを考えればよくなりましたから」
頭にはあるのは、優勝のみ。
10月29日のホーム、浦和レッズ戦では2ゴールを挙げる活躍を見せて、王手を掛けるとアウェイ、ヴィッセル神戸との最終節で歓喜の瞬間が待っていた。
「幸せでしたね。あのシーズンは、ピッチに入った瞬間に〝勝てる〟と確信を持てたほど。負けることがまったく頭によぎらなかった。アタッキングフットボールを展開できて、僕自身も気持ち良くプレーできていました。監督、チームに迷惑を掛けてしまったなかで、優勝してああやって監督ともチームメイトとも喜べて、最高の時間を過ごすことができました」
このF・マリノスでもっともっと成功したい――。
優勝にも11ゴールという数字にも満足せず、オフシーズンにはフィジオセラピストと個人契約してキャンプ前から体を仕上げている。シーズン中も摂生に努めて、自宅に戻ってからもケアを怠ることなくグッドコンディションを維持した。
心技体すべてがかみ合った23年シーズン。リーグ戦全34試合に先発して22ゴールを叩き出し、初めての得点王に輝いた。連覇こそ取り逃がした悔しさは残ったものの、ロペスがゴールを決めればチームに勢いがついた。
独善的なストライカーではない。先にあるのは自分ではなく、チーム。そのうえで結果を残していく哲学は得点王の先輩、ウタカから学んだものでもあった。
「チームのため」があるからリスペクトを向けられる。その象徴的な試合が12月3日、最終節のアウェイ、京都サンガ戦であった。連覇が前節に消滅していたチームは、「ロペスに得点王になってもらう」で一致していた。1人退場しながらも、ボールがエースに集められた。
前半24分だった。山根陸からの柔らかいパスを押し込んで大迫勇也に並ぶ22ゴール目を挙げた。
試合前日、彼は敬愛するマスカット監督のもとを訪れていた。
「ケビン監督に『来年もこのチームでやりますか?』と聞くためでした。そうしたら『その話は明日の試合が終わってからにしよう』と言った後でこう続けたんです。『君は得点王になるべき選手。点を獲れるようチームとして努力したい。試合に集中してほしい』と。あの右からのクロスは(自分の前にいた)ヤン(マテウス)が触れたのに、わざわざスルーした。みんなの思いが伝わってきました」
マスカット監督の勇退が本人の口から明らかにされると、ロペスは感謝の言葉を、繰り返して本人に伝えている。
「だって僕の人生を救ってくれた恩人ですから。もしケビン監督があのとき帰国をOKしてくれていなかったら、得点王もなかったかもしれない。もっと言えば現役を続けられていなかったかもしれません」
もう一つ、「監督のため」が1シーズン通したハイパフォーマンスの背景にあった。
直訴してエースナンバーの「10番」に変更になった24年シーズンも絶対的1トップとして前年を上回る24ゴールをマーク。2年連続の、そして今度は単独での得点王となる。
Jリーグアウォーズでのスピーチでは<特に妻はどれだけ私が色々なものを犠牲にして、ここまで来ることができたかを分かってくれています>と妻への感謝を述べた。
そのことを尋ねると、彼の言葉が熱を帯びていく。
「あの場で言ったとおり、家族の時間も犠牲にしてきました。なぜなら外国からの〝助っ人〟としてただただプレーするか、歴史に名を残すか、後者になるなら取り組みも全然違ってくるんだと妻には理解してもらい、そのうえでサポートしてもらっているからです。僕はこの日本で名を残したいし、それをF・マリノスでやりたい。そのことも妻には話をしています」
今オフには契約を更新しながらも母国ボタフォゴへの移籍話、少年時代に憧れたスポルチ・レシフェが獲得に関心を示しているとの報道もあった。
これだけ活躍すれば、周りも騒がしくなってくるのは当然。ただ彼の腹のなかは決まっていたことだけは確かだ。
「僕が言えるのはただ一つ。契約を更新した以上、出ていくことは考えていなかったし、まだこのクラブでのチャレンジが道半ばだということです」
今季は苦しいスタートとなっている。守備の修正に目を向けるスティーブ ホーランド新監督のもと得点力が上がらないジレンマに陥り、勝ち点を積み上げられない状況が続くなかで4月18日、契約解除が発表された。ロペス自身も調子が上向いていかないもどかしさが続いている。
反転攻勢へ、己を奮い立たせるロペスがいる。
「僕も家族もクラブとこの街が大好き。道半ばと言ったのは、もっとタイトルを獲れるはずだし、王者に返り咲きたい。それに得点王もそうですが、JリーグMVPを心のなかで強く思っています。その目標に向けて僕はすべてを懸けてやっていきます」
道半ば、立ち止まっている時間はない。仁王立ちで右腕にでっかい力こぶをつくって、突き進んでいくだけである。