まりびと:宮市亮
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Text by 二宮寿朗

 誰もが知っていることだが、敢えて言わせていただく。
 宮市亮は、涙もろい。
 映画「火垂るの墓」で涙するのはよく聞く話だとしても、小学校の卒業式で自分の学年でもないのに、仲の良い知り合いが特にいるわけでもないのに、ガン泣きしている人はそうそういない。
「友達にも『どうしてお前が泣いてんだ』と突っ込まれました(笑)。別れとかに弱いんですよね。メチャメチャ涙もろいのは、もう昔からなんです」

 あの日「泣きの宮市」がいて、もらい泣きするファン・サポーターたちがいた。
 右膝前十字靭帯断裂の大ケガから復帰4戦目となった6月10日、日産スタジアムでの柏レイソル戦。1点ビハインドの後半37分に投入されると、同点に追いついて迎えたアディショナルタイム終盤に決勝ゴールが生まれた。ゴール裏は歓喜の雨、あられ。宮市にチームメイトのみならずスタッフまでもが駆け寄って雄叫びが混ざり合った。

 彼はこう振り返る。
「ゴールを決めてゴール裏に走っていくときにファン・サポーターの顔も凄く鮮明に見えて、そうしたらチームメイトにもみくちゃにされてパッと顔を上げたら、黒いジャージーを着たスタッフたちも駆け寄ってくれていて。幸せでしたし、やっぱこのチーム、最高だなって思った瞬間でもありました」
 ヒーローインタビューでは感極まって言葉に詰まった。みんなと勝利の喜びを分かち合うこの光景をずっと頭に描くことでリハビリを頑張れた思いと、自分のゴールを誰もが大喜びしてくれた感激が涙腺を緩ませた。

写真:ヒーローインタビューで涙を浮かべる。

 宮市はお立ち台で「魂のゴール」と表現した。まさにそのとおりだった。
 マルコス ジュニオールがボールを受け取ると同時に、裏に出ようとする。アンデルソン ロペスへのクサビから、ボールは再び左ペナルティーエリア内に入ってきたマルコスへ。中で止まって待ち受けていた宮市に渡ると、一度トラップしてから右足を思い切り振り抜いた。相手に当たったボールは、軌道を変えてボテボテでゴール右に転がり込んだ。
「マルコスと目が合ったわけではないんです。いつ見てたんだって思うくらい完璧なボールが来て、トラップもいい位置に決まって、ただシュートコースはあまりなかったのでとにかく足を振り抜こう、と。(シュートを打ってから)スローモーションに、転がっていくボールの軌道が見えて内側に回転が掛かりながら入っていきました。普通なら、あんなふうにはならない。本当にいろんな人の思いが詰まって、あのボールの軌道になったんじゃなんじゃないかって思うんです」
 チームメイトとスタッフとファン・サポーターと……このクラブに関わるみんなで奪ったゴール。大ケガから復帰した自分への最高のご褒美だと思えた。

 10カ月半前、宮市はこの同じ日産スタジアムで涙を流していた。そう、2022年7月30日、鹿島アントラーズ戦での出来事である。
 日本代表に復帰して臨んだEAFF E-1選手権の韓国戦(27日)で負傷。ザンクトパウリ時代から両膝合わせて3度目となる前十字靭帯断裂に、心は折れた。引退に傾いていたというよりニュアンス的には「固めた」に近い。
「何度も大ケガをしてきて、もし次やってしまったら(競技生活を)終わろうと考えていたので、ついに来てしまったかっていう感じでしたね。次で終わりだよって自分のなかで決めていたところがありましたから」
 試合翌日、名古屋から移動して新横浜駅に到着するとメディカルスタッフの日暮清トレーナーたちが待ってくれていた。病院に向かう車中で、「もうやめようと思います」と伝えている。再びピッチに立つこと姿など想像すらしなかった。
 だが固めたはずの気持ちに、わずかながら余白はあった。宮市のもとにはファン・サポーター、サッカー仲間、知人、友人を含めて「世界中から」おびただしいほどの激励のメッセージが届いていた。一つひとつに目を通すと自然と熱いものがこみ上げてくる。余白は広がりを見せ、心境に変化が出てきたのは間違いなかった。
 当初、日産スタジアムに足を運ぶ予定はなかったという。
「チームからも〝家で見ててもらって構わない〟と言われていたので、僕もそうしようと思っていました。でもなぜだか日産スタジアムに行きたくなった。試合が始まる数時間前に、行くと決めてクラブに連絡して。行ってみたら、あんなサプライズになっているとは夢にも思わなかった」

写真:ロッカーには17番MIYAICHIのユニフォームが。

 あんなサプライズ――。
 宮市は目を疑った。
 アップから出ていくチームメイト全員が、背番号「17」のユニフォームを着てピッチに向かった。一人ひとりとタッチしていくと熱い感情がこみ上げてきた。
 続けてファン・サポーターの番だ。
≪トリコロールの宮市亮 再びピッチで輝け 待ってるぞ≫
 大きな弾幕にファン・サポーターのメッセージが記され、あちこちに背番号「17」のゲーフラが揺れていた。ちょっと待ってよとばかりに不意を突かれた宮市はまたしても頬を濡らしていた。
 彼に向けられた大きな拍手、大きな励ましの声。
 試合後、チームメイトと一緒に挨拶に出向くと、3度目の涙を我慢できなかった。顔をくしゃくしゃにすると、ファン・サポーターも同じ顔をした。固めた引退への気持ちは涙と一緒に流れていた。
「本当に奮い立たされたというか〝絶対、このピッチに戻ってこよう〟と決心しました。チームがしてくれたこと、ファン・サポーターがしてくれたことに、(自分の心が)動かされた。あの日のことは一生、忘れない」

 宮市はいわゆる〝逆輸入Jリーガー〟である。
 中京大中京高を卒業してJリーグを経由せず、英プレミアリーグの強豪アーセナルに加入。フェイエノールト、ボルトンなど期限付きでイングランドとオランダのクラブを行き来し、アーセナルでは欧州CL出場を果たしたものの、調子が上がってくるとケガがつきまとう不運に見舞われた。悔し涙を流すことのほうが断然多かった。
 野心に燃える自分がいた。
「欧州には世界中からいろんな選手がやってきて、そこでステップアップをして上のレベルのチームやリーグに行きたいと思うと、どうしてもチームのためというよりも自分のためになりがち。僕はアーセナルから半年、1年のレンタルが多くて、その都度チームのためにと思って頑張ったつもりですけど、そういう意味では愛着がわきづらかったのは確かです。ただドイツのザンクトパウリには6シーズンいて、凄く支えてもらったし、僕のなかでは凄く愛着のあるクラブになりました」
 ドイツ2部ザンクトパウリ在籍時に、帰属意識というものがはっきりと芽生えるようになっていた。
 チームに欠かせない存在となっていき、大ケガに見舞われても契約を更新してくれた。チームが、クラブが自分を必要としてくれたことはこのうえない喜びとなった。チームに目を向けていくことが、ひいては自分のためになる。そんな意識が段々と強くなっていた矢先、日本から思いもしなかったオファーが届いた。運命的にも思えた。

 2021年夏、横浜F・マリノスに完全移籍を果たす。28歳からのJリーグ挑戦は移籍当初こそ出番は少なかったものの、毎日が刺激的でもあった。

写真:横浜F・マリノス加入初日のトレーニング。

「ケガで前年の20~21年シーズンはほとんどプレーできていなかったので、まずはコンディションを上げていく必要がありました。まず日本に戻ってきて感じたのは、練習の質から高いこと。アタッキングフットボールを掲げた独特の戦術に慣れるのにも多少時間は掛かりましたけど、自分がうまくなっている実感を持つこともできました」
 欧州と日本の環境、サッカーの違いもまったく気にならなかったという。
「違うなと思ったのは、欧州では身長が一番小さいくらいだったけど、日本では逆に大きいほう。それくらいですよ。土の硬い、柔らかいはありますけど、それも気にならなかったですね。だってサッカーはサッカーじゃないですか。
 このチームは本当にいいヤツばかりだし、練習から雰囲気もいい。手を抜く選手もいない。たとえベンチ外になろうとも、ベンチ外になったメンバーでの練習できっちり100%を出して、次はメンバーに呼ばれて結果を出す。そういうチームの姿勢を見てきました」
 メンバーに入ろうが入るまいが、いつも100%。チームとリンクするマインドでひたむきに取り組み、2シーズン目となった2022シーズンは出番を増やしてくる。スピードスターの本領発揮。彼がサイドを切り裂けば、チャンスが生まれた。

 5月18日、アウェイの浦和レッズ戦でJ初ゴールを挙げると、7月2日のアウェイ、清水エスパルス戦、4日後のホーム、サンフレッチェ広島戦で2試合連続のゴールを挙げる。
 活躍の原動力は、みんなで勝って、みんなで喜ぶこと。欧州ではあまり持てなかった価値観でもあった。

「自分がゴール決めるとかアシストするとか、そんなことはどうでもいい。みんなで一つのものに向かって勝った瞬間がうれしい。
 向こうにいたときは、同じポジションの選手がゴールを決めたら〝なんだよ〟って思うこともありましたよ。でも今は同じポジションの選手が決めても自分のことのように喜べます。選手それぞれにストーリーがあって、チームが一つになって盛り上がって。だから僕は僕の仕事をするだけ。日本に戻ってきてそういう感覚になったのは確かです」
 E-1選手権に臨む日本代表メンバーに好調F・マリノスから7人が選ばれ、宮市の名前もあった。日本のサッカーにアジャストして、これからというときにあの大ケガが待っていた。

「やっぱり生半可な状態で戻ってはこれない。待ってくれているみんなのためにも、今以上になって戻ってくることが使命。そうじゃなかったら、それこそもう辞めどき。強い意識を持ってリハビリに取り組んでいきました」
 今以上の自分に戻ってくる――。
 腱を移植した右ひざの曲げ伸ばしから、特に初期のころはやることも限られてくる。焦らず、すべてを丁寧にじっくりとやっていかなければならない。強い精神力なくして、地味で過酷な日々を乗り越えることはできなかった。
 いつもそばには日暮がいた。心がひるみそうになると決まって「これが絶対、最後には活きてくる」と声が飛んできた。一日も休まず、自分に時間を合わせて付き合ってくれた。欧州ではここまで熱心に、かつきめ細やかにやってくれたことはなかった。自分の体をすべて預けていいと、心から思えた。

写真:左が日暮清トレーナー。宮市のリハビリを支えた。

 チームメイトからの励ましも大きかった。キャプテンの喜田拓也はオフを使って、自分のリハビリに付き合ってくれた。日産スタジアムの周りを一緒にジョギングすると、喜田がさりげなくこう言ったという。
「亮くん、あと数カ月経ったら、ここ(スタジアム)だね」
 この一言が、どれだけ励みになったことか。實藤友紀はたびたび食事に誘ってくれて、何気ないコミュニケーションが気晴らしになった。水沼宏太はいつも、こちらがポジティブになるような声を掛けてくれた。無論彼らだけではなく、誰もが気に掛けてくれた。
 優勝争いをしているチームに対して何かできることはないか。チームが催すイベントには積極的に参加して応援を呼び掛けた。逆にファン・サポーターから「待ってるぞ」と倍返しの声援も受けた。
 リハビリの期間は、チームメイトともスタッフともファン・サポーターともF・マリノスをハブとした全方位とのパイプが太くなった気がした。愛して、愛されて。双方向のかぶせ合いは、復帰に向かう宮市のパワーを醸成した。
 復帰にあたって、宮市は日暮に感謝の言葉を直接伝えるとともにあらためてLINEのメッセージでも送っている。
 レイソル戦での劇的な決勝ゴールに試合後、本人よりも号泣していたのが日暮だった。その姿に宮市の目頭が熱くなったことは言うまでもない。
 彼はあらためてこのように語る。
「若いときは自分のキャリアのために海外に飛び出しましたけど、年齢も重ねていろんな経験をしていくなかでチームの有難みというものに気づかされて……チームのためにやることが自分のためになるっていう考え方は今の僕にとって凄くしっくりくる。過去においてはケガをしても自分の意地みたいなものが先にあったように感じます。でも今回は、引退も頭にあって自分の意地だけでは戻ってこれなかった。みなさんの力を借りることで、それが可能になった。だからこそみなさんには感謝しかないんです」

 宮市は心身ともにスケールアップして戻ってきた。
 スピードのアップダウンがよりスムーズな〝緩急〟となっているのは、体全体のバランスが良くなっているからだろう。箇所が箇所だけに徐々に上げている段階ではあるが、リハビリ当初に決意したように「今以上」を実現できる雰囲気を漂わせている。ケガを怖れてプレーすることもない。ピッチに立てば、チームのために全力を尽くす、その一念しかない。
 約束どおりピッチに戻ってきた宮市の次の目標は何か?
 返答はすぐに。声は弾ませ気味で。
「毎日、スパイクを履いてボールを蹴る喜びを噛みしめています。毎日、本当に(笑)。だからあんまり先を見ていません。毎日トレーニングできること、それが今の自分の目標だなってはっきりと言えますね」
 彼のフットボール人生は、自分でイメージしたものとはだいぶ違っているのかもしれない。ケガに翻弄され、欧州で名を上げて世界のスピードスターになる道からは大きく外れてしまった。しかし彼は、下を向かなかった。横浜F・マリノスとの出会いもあった。新たな価値観にも気づけた。彼しか歩めないフットボール人生は、実に味わい深い。
「昔はこうならなきゃいけない、みたいな理想を追い求めてそのギャップにつまずいたりもしました。でも今はありのまま。そのメンタリティーでいることが、結局はピッチにも反映するんだなって分かってきたところはあります。
 人生ってうまくいかないことが多いじゃないですか。その都度受け入れて、うまくいくようにしようってもがいていくことを諦めずにやり続けるしかない。これからもそうだと思います」
 ありったけの涙を流してきた。かつて自分に向けていた涙は、いつしか人の思いを乗せた涙ばかりになった。
 酸いも甘いも、苦しみも喜びも。すべてをフットボーラーとしての肥やしに。
 宮市亮には、とびっきりの涙が、よく似合う。
 宮市亮には、とびっきりの笑顔が、よく似合う。