まりびと:皐月昌弘&和田武倫(前編)
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Text by 二宮寿朗

 日産自動車サッカー部時代の1985年に男女の小学生を対象とした「日産サッカースクール」が立ち上がって以降、横浜マリノスに移行してからも育成に力を入れてきた。スクールを起点にプライマリー、ジュニアユース、ユースなど広がりを見せ、トップチームをはじめサッカー界に多くの人材を送り出している。F・マリノスが誕生して30年、クラブの育成にずっと携わってきた人たちがいる。その一人、現在はスポーツ事業部アカデミーグループグループリーダーを務める皐月昌弘の物語――。


 Jリーグ開幕前年の1992年に横浜マリノスが誕生するとともに当時神奈川大学3年生だった皐月昌弘はアルバイトコーチとしてクラブに入ってきた。あれから30年。F・マリノスの育成と普及の一筋でここまでやってきた。

 52歳になった今、現場を離れてから久しい。マネジメント側に回り、アカデミーのコーチたちが指導に専念できるように裏方として事務業務、管理業務を主に担っている。だがコーチ感覚がどうしても抜けないのだと苦笑いを浮かべる。
「アカデミーの試合を観ると、ここはこうしてもいいかもなとか、(課題に対して)こういう練習をやってみたらどうなのかなとか、勝手に自分の考えが出てきてしまうというかコーチ目線になってしまうんですよね。現場がやっぱり好きなんでしょうね」


 育成に魅せられた人だ。
 皐月は神奈川・旭高校サッカー部でディフェンダーとしてプレーし、神奈川大学に進学。大学ではサッカー部に入らなかったが、変わらずサッカーは好きだった。友人に誘われる形でスクールのコーチをアルバイトで手伝うことになった。
「指導経験も全くなかったし、とりあえず行ってみようかくらいの軽い気持ちでやり始めたんですけど、すぐにハマってしまったんです。自分のアドバイスによって子どもたちの変化や成長を感じことが自分の喜びになりました。これを仕事にできれば最高だなって、指導者に対する関心が高まっていきました」
 高いレベルにも驚かされた。新子安のプライマリーで当時小学4年生だった金子勇樹(2001年にトップ昇格)たちの試合を観たときに衝撃が走ったという。
「4年生でもうこんなにできるのって思いましたから。凄いなって。自分も相当勉強しなきゃいけないって思わされました」
 アカデミーの監督、コーチは日産サッカー部の選手や、日産のアカデミー出身者らが多く、大学でサッカーをやっていない皐月のような存在は異例だった。本気で育成のコーチを目指すなら、指導者としてのレベルをグッと引き上げなければならなかった。
 追浜のプライマリーを担当するコーチとなり、指導を終えてからも担当外であるジュニアユースの練習を見て自宅に戻ってからメニューを全部ノートに書き出し、プライマリーでの自分の指導のフィードバックなどもメモにして残した。見たこと、思ったことを全部書くことで頭のなかが次第に整理されていった。

 当初は公務員を目指していたが、就職活動もしないでアルバイトコーチにどっぷりと浸かった。皐月が「かなり影響を受けました」と語る望月選、和田武倫という模範にすべき指導者が近くにいたことも幸運だった。猛烈なまでの意欲が認められてマリノスに契約社員として採用され、1996年からは正社員となる。
 追浜のU-10コーチからスタートし、個人的な目標は「プライマリー新子安を追い越せ」。当時は伝統ある新子安が「本家」と呼ばれていた。
「新子安の方が注目をされることは当然だし、昔から良い選手が集まるエリート集団でした。だから僕のなかでは新子安を強くライバル視していましたし、追浜だって負けていないぞ、という気持ちで指導にあたっていました。特徴的な選手がいっぱいいて、凄く伸びしろがあるなって。ここは自信を持って言うことができたと思います」
 プライマリー時代はフィールドプレーヤーだった飯倉大樹(2005年にトップ昇格)ら確かに個性派が多かった。現在こそトップチームのスタイルをアカデミーにも反映させているが、アタッキングフットボールを取り込む以前はトップチームとの連動はそこまで強調されていなかった。そのため「新子安」と「追浜」では指導法が異なることも珍しくはなかった。


 皐月は技術力、判断力を上げる練習を重視した。
「タッチ数を制限するゲーム形式のトレーニングを多く取り入れましたね。そのなかでどう判断して、局面をどのように打開していくか。そこに凄くこだわりました」
 プライマリー追浜U-12監督時代に育てた一人が、のちにF・マリノスで10番を背負い、日本代表にも選出される天野純(2014年に順天堂大学から加入)である。
「足は速くないけど、左足のキックは飛び抜けて良かったんです。自分にスピードがないから周りをうまく使ってサッカーをしないと、自分の表現力を出していけない。だから判断のところは口酸っぱく要求した記憶がありますね。フィジカルや技術で個人的に差が出るのは仕方がありません。でも頭のなかで考えることはみんなが同じ絵を描けばいい。そこは個人差が出ないようにと意識して指導するようにはしていました。
 純はジュニアユースに上がってバリバリのレギュラーではなかったんですけど、体ができていなかったことも加味されてユースに昇格しました。試合に絡むようになったのは高2くらいから。結局大学に進学して、F・マリノスに戻ってきたらあのように活躍するわけです。技術があって判断力をベースとして持っていれば、いつか花が咲くんじゃないかと。技術と判断の重要性を改めて実感させてもらったのが純の活躍でした」

写真:左上が皐月。下段の左から3人目が天野純。

 その後はジュニアユース追浜の監督を務め、2006年以降は統括の役回りを担うようになり、現場から次第に離れていく。根っからの現場好きなために寂しさはあったものの「クラブが良い方向に行くために」を心に置いて、アカデミー全体を裏方として支えていくようになる。
 現在のアカデミー体制は育成部長を務める安達亮がトップチームのアシスタントコーチを務め、クラブが設けた技術委員会を通してトップチームとアカデミーの連動を図っている。「望ましい形」と語る皐月はこう言葉をつなげる。
「以前のトップチームは守備的なイメージもありましたが、スタイルが明確になっていたわけではありませんでした。こういう選手を育ててほしいというところもちょっと曖昧な部分ってあったと思うんです。だからいい意味で言うと(指導者が)思うようにやらせていただいた。でも同時にアカデミーのコンセプトで軸となるものができていないことは長年の課題でもありました。
 そんななかで(アンジェ)ポステコグルー監督がやってきて、植えつけてもらったアタッキングフットボールで2019年シーズンを優勝した。これがF・マリノスのイメージにつながり、アタッキングフットボールに貢献できる選手をアカデミーから輩出していこう、となり、今ではジュニアユースもユースもトップチームに近い形で育成されています。私も自分の立場で貢献していきたいと考えています」


 加茂周の提言によって1985年に新子安に「日産サッカースクール」が誕生して38年。地域と良好な関係を築き、地域と一緒になって育成していくという考えが根底にあった。皐月は現場時代にほぼ追浜で活動してきたことで、横須賀市とも太いパイプをつくり、横須賀サッカー協会理事を務めるようになる。そして横須賀市久里浜にトップチームの新たな拠点である「F・マリノススポーツパーク~TRICOLORE BASE KURIHAMA~」が誕生。これもクラブと横須賀の良好な関係性なくしては語れない。
「追浜にいたのは20年以上。指導者として横須賀市には育てていただき、感謝しかありませんし、F・マリノススポーツパークができたということで横須賀の方たちにもっともっとクラブのことを知っていただきたいという思いもあります。これから横須賀市にも恩返ししていきたいですね」

 これからも育成に携わっていくことが皐月の願いでもある。
 目標を尋ねると、皐月は言った。
「現場をやれるチャンスがあったら、もう一度やってみたい。その思いはずっとあります。今、本当に素晴らしい指導者が周りに多くいるなかでも〝俺だって負けない〟みたいな気持ちがやっぱり消えないんですよね。もちろんトレセンとか国体とか、短期間だけ選手を預かって指導することはありましたけど、1年間しっかりチームを持たせてもらって、自分が今持っている指導力と経験値すべてを注いで、選手と一緒になって目標に向かってやっていくことができたらいいなって、密かに思っています(笑)。やっぱり30年前、指導者になりたてのときに感じた指導する楽しさって、ずっと残っているんです。現場に出て、味わいたいんですよね」
 30年前の喜びは、今なお新鮮なままだ。
 育成への情熱は変わらない。それは、これからも――。