まりびと:永山邦夫
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Text by 二宮寿朗

 2022年は日産自動車サッカー部50周年、横浜F・マリノス30周年というメモリアルシーズンになる。日産ユース立ち上げに第1期生として入団し、初めてトップチーム昇格を果たしたのが永山邦夫。2003年シーズンを最後に引退後も育成の指導者としてF・マリノスひと筋。常にクラブの歴史とともにあった「おにくさん」の半生を振り返る――。

 くにお、を下から読んで、おにく。
 永山邦夫は1986年の日産ユース入団以来、日産自動車サッカー部、横浜F・マリノス、そして2003年シーズン限りで引退してからも育成スタッフとしてずっとこのクラブに携わっている生き字引的な存在である。彼の足跡を振り返ってみると、トリコロールとともに歩んでいく運命だったと思えてくる。
 あるサッカーコーチが自分の通う幼稚園にやってきて、ボールを蹴る楽しさを教えてくれた。永山はその流れでサッカーを始め、小学生になるとコーチが立ち上げた「かながわクラブ」に参加した。1つ上には「天才」と称されることになる菊原志郎がいた。「別次元で、僕たちと見ている世界が違う」と感じた。中盤でプレーしていた永山にとっては目標となり、努力が引き出されていくことにもなった。

(後列左から二人目の坊主頭が永山少年。その前にしゃがんでいるのが菊原志郎さん)

 指導を受けたコーチの名は永井洋一。加茂周の提唱によって育成部門の充実を図る日産自動車サッカー部はジュニアユース、ユースを立ち上げ、そこに永井も加わることになる。「かながわクラブ」でサッカーに明け暮れていた永山少年は日産ユース初年度にその一員となる。流れに自然と身を任せていたら「日産」にたどり着いたわけだ。  元選手である鍵本勝美監督のもとサイドバック、センターバックとしてみっちり鍛えられ、高2時に日本クラブユース選手権初優勝を成し遂げてAFCユース選手権に臨むユース代表にも選出された。そして高校を卒業する1989年にトップチームへの昇格も決まる。記念すべき日産ユース第1号の選手となった。

 加茂監督率いる日産自動車サッカー部は1988~89年シーズンに3冠(JSL、天皇杯、JSLカップ)を達成して黄金期を迎えていた。木村和司、金田喜捻、水沼貴史、松永成立……スター集団に加わることができるなんて夢にも思っていなかった。
「日産の試合はずっと三ツ沢で見てきましたから、そこに自分が入って一緒にサッカーをするだけで幸せでした。一方で凄いところにきちゃったな、とも(笑)。僕が入るころはプロリーグが検討されていましたから、既にサッカーだけに専念できる環境でした。試合の前日はホテルに泊まってみんなで食事をするとか、練習着の洗濯は自分でしなくていいとか、すべてはサッカーに集中するため。プロの世界って凄いんだなって思った記憶があります」
 同期には日産ファーム出身の松橋力蔵、静岡学園出身の鈴木正治、修徳出身の神野卓哉らがいた。89~90年シーズンは加茂監督の勇退に伴って元ブラジル代表主将オスカーが現役を引退して、そのまま監督に就任。若手の抜擢に積極的な指揮官のもと、すぐに出場機会を得ることにもなる。
「チームメイトが凄い人たちばかりなので、やっぱりプレッシャーは凄くありました。当然、周りの要求は高いし、ミスをすると〝そういうミスあるのかよ〟っていう厳しい目もありました」
 萎縮はしていない。先輩のプレッシャーも厳しい分、そこをクリアしたときは何ものにも代えがたい喜びがあった。手本にした先輩がいた。「パオさん」と呼ぶ、守備のユーティリティプレーヤーである田中真二であった。
「僕とそこまで変わらないサイズでセンターバックもやるし、どこでもやれる。本当に参考になりましたね。実際、一緒にプレーするときは常にパオさんのことを目で追っていました」
 当時はJリーグ設立前でユースからの昇格がレアだった時代。両親を安心させるために大学にも通っていたが、両立は難しかった。1年足らずで中退したことで、逆にサッカーでメシを食っていく本物の覚悟が固まった。
 スポンジが水を吸い込むが如く成長を遂げ、2年目は出場試合を増やしていき、澤登正朗や後にマリノスでチームメイトになる小村徳男や三浦文丈らとともにバルセロナオリンピック代表メンバーとしてアジア予選にも参加する。<br />  マレーシアで集中開催された最終予選では6チーム中5位に終わり、本大会の切符を勝ち取ることはできなかった。世代別代表の思い出は、今も宝物になっているという。
「オリンピックに行けなかったのは残念ですが、ユース代表、五輪代表でインドネシアやマレーシアなどいろいろなところに遠征できました。にぎやかな世代だったと思います。長い時間を一緒に過ごしたので、みんないい仲間になっていきましたから」

 Jリーグの設立に前後して、空前のサッカーブームが巻き起こっていた。
 5・15、国立競技場での歴史的なオープニングマッチに、永山はベンチ入りを果たした。出場機会こそ訪れなかったが、あの興奮は忘れられない。
「あんなとてつもない雰囲気を経験したのは初めてでした。どこからも凄い歓声で。いよいよJリーグが始まるんだなっていう実感がありました」
 初年度こそ16試合の出場にとどまったが、1994年は開幕戦から先発に定着して出場機会を増やした。そんなときに永山にアクシデントが訪れる。1995年シーズン開幕直前の練習試合で右ひざを負傷したのだ。前十字、内側側副靭帯、半月板を「全部持っていかれてしまう」大ケガに見舞われた。
 普段は感情の起伏を見せることのない永山も、このときばかりは落ち込んだ。思いがけず選手生命の危機に直面したのだから無理もなかった。
「本当に再びサッカーができるのかっていう不安がつきまといました。単調なリハビリも苦しいし、気持ちが萎えそうになることが何度もありました」
 回復に時間が掛かったこともその一因にあった。患部は水が溜まりやすく、ひどく腫れた。曲げ伸ばしをするだけでも苦労した。ちょっと良くなってリハビリの強度を上げると、痛みがぶり返す。延々その繰り返し。ボールを蹴ることなんて永遠に無理じゃないかとさえ思えた。
 チームで支えてくれたのがメディカルであり、なかでも日暮清トレーナー(現在はチーフトレーナー)には弱い部分もさらけ出した。
「ひざの曲げ伸ばしのところから親身になってサポートしていただきました。状態に波があって気持ちが沈むこともあるなかで、この人を信じてついていけばいいんだろうなって」
 再びピッチに立つことを、トレーナーが信じてくれた。だから希望を持てた。そうなると今度、手綱を締めるのは日暮のほうだった。永山はついていくどころか、ストイックゆえにやりすぎてしまうきらいがあった。デリケートな箇所のため、無理は絶対に禁物。日暮がうまくコントロールしてくれたことで、痛みのぶり返しが次第になくなっていった。
 復帰までに1年半という長い時間を要した。1995年シーズン、チームがリーグ初制覇を決めたことも励みになった。

 ピッチに戻ってきたとはいえ、ケガ前のようにプレーできるどうかは分からない。
 1998年には再びシーズンを棒に振るケガに見舞われている。だが前回のように落ち込まずに済んだ。周りの人が希望を持ってくれているなら大丈夫だと前を向いてリハビリに取り組めた。
 2000年にはオズワルド アルディレス監督のもと右ウイングバックで先発機会を増やしていき、キャリアハイとなる24試合に出場して2ゴールを挙げる。その後監督が交代してもボランチ、インサイドハーフと守備を基調に役割を変えていく器用ぶりを示した。若手時代に手本にした「パオさん」のように、守備のユーティリティー役を引き継いだ。
「アルディレスはアルゼンチン人監督らしく球際のところの要求が多かった、そこをしっかりと出しながら、自分ができるプレーを確実にやることを心掛けました。確かにいろんなポジションをやることになりましたけど、サイドならやっぱりアップダウン。守備のタスクをこなしたうえでタイミング良く攻撃に参加するようにしました。中盤なら上野(良治)やアキ(遠藤彰弘)ら組む選手の特徴を見つつ役割分担していこうと考えました」
 日々のストイックな姿勢を誰からもリスペクトされた。ケガを再発させないようにトレーニングとケアに時間を掛け、食事も睡眠にもこだわった。常に一定のコンディションを保ち、サブに回ってもモチベーションを高く保った。
「すべてはサッカーのためにじゃないですけど、食事も睡眠もすべてやったうえでグラウンドに向かいたいと思っていました。一日をしっかりやり終えたかどうか。そういった気持ちで続けていたのは確かです」
 右ひざの大ケガによってもうプレーできないんじゃないかと不安にさらされた毎日があったからこそ、日々を悔いなくやり終えたいとする流儀が固まったのかもしれない。

 現役時代、最も記憶に残っているのは2001年のヤマザキナビスコカップ決勝(国立競技場)だという。リーグ戦で残留争いに巻き込まれたなか、どうしても獲りたかったタイトル。永山自身、ケガで1995年のリーグ制覇に絡めなかっただけに、静かに闘志を高めていた。前年にはチャンピオンシップで敗れた悔しさもあった。
 息が詰まるようなジュビロ磐田との激しい攻防。スコアレスのまま、後半40分過ぎに入っていた。ペナルティーエリア手前で清水範久を倒してしまい、この日2枚目のイエローカードを受けて退場処分を受けてしまう。
 目の前が真っ暗になった。
ピッチを後にしてから時間とともに自責の念が強くなっていく。10人になったチームは割り切って守り、PK戦に突入。頼むから、勝ってくれ。心のなかでそう何度も絶叫した。
「マツ(松田直樹)が必死に鼓舞して、みんな何とか粘ってくれて。PK戦で勝ったときはもちろんうれしかったんですけど、何か申し訳なくて(笑)。ロッカーでは冷やかされもしましたよ。優勝したことでみんなもう(退場のことは)どうでもいいみたいな雰囲気だったので、まあ良かったな、と」

 ひざ痛との戦いは続いていた。
 岡田武史監督を迎えて両ステージ制覇の完全優勝を果たす2003年シーズン、8試合の出場にとどまった。それとともに現役引退を考えるようになっていた。他クラブのからのオファーもなかったわけではなかった。
「最後の1年は自分のひざと相談しながらプレーしている部分があり、ここはもうF・マリノスで辞めるタイミングなのかなと、最後はそういう決断になりました」
 33歳、日産ユースからひと筋。ワンクラブマンの功労者には翌年の開幕戦に引退試合が用意された。前座としてOBとユースが対戦して、最後はレフェリーの粋な計らいでPKとなって永山が最後に蹴り込んだ。
 日産スタジアムは大いに沸き、大きな拍手に包まれた。
「僕のような選手に引退試合まで用意してもらって感謝しかありません。ユースの選手と一緒にプレーできたのも本当にうれしかったです」
 ユースで始まり、ユースで終わる。粋な計らいだった。

 引退後は指導者の道に進む。一貫して育成に携わり、ふれあいサッカープロジェクトコーチから始まってジュニユース新子安コーチ、日本工学院F・マリノスコーチ、プライマリーコーチなどを経て2019年からは日本工学院F・マリノスの監督を務めている。コロナ禍の2020年シーズンには神奈川県社会人1部リーグで優勝を果たした。
 育成の醍醐味とは何か。
 永山は言う。
「各カテゴリーで違いはありますが、勝った喜び、負けた悔しさを共有できるのは現場でしか味わえませんから。携わった選手がトップに昇格したり、ほかのチームで頑張ったり、またはプロじゃない道に進んでも、顔を合わせて話をするたびにこの仕事をやっていて良かったなとは思います。サッカーだけじゃなく、ほかの道に進んで活躍してくれたっていい。それが指導者としてのやり甲斐になっています」

 日産自動車サッカー部50周年、横浜F・マリノス30周年。
 2つのメモリアルは、永山にとっても感慨深いという。
「子どものころから日産のチームを応援して、今度は選手になって、育成の指導者になって逆に応援してもらって今があります。そうやってずっと自分の人生にかかわっている。日産自動車サッカー部と横浜F・マリノスがあったから自分がある。心からそう思える存在です」
 日産の歴史に、F・マリノスの歴史に、さりげなく「おにくさん」はいる。