まりびと:畠中槙之輔
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Text by 二宮寿朗

 静かに復活を期す男がいる。ハマのディフェンスラインを支えてきた畠中槙之輔、26歳――。手術を要するサッカー人生初の大ケガで長期離脱を余儀なくされ、シーズンオフの今もリハビリの日々が続いている。サッカーができない現実にひどく落ち込みながらも家族や周囲の支えもあって立ち直り、「負けず嫌い」を燃やしてモチベーションを高めている。横浜F・マリノスでの足跡をたどりつつ、シンの今に迫る。

 追っていた畠中槙之輔が日産スタジアムのピッチに倒れ込んだ。
 2021年8月28日、鹿島アントラーズ戦。前半30分、背後に送られたスルーパスに反応してスピードを高めたその瞬間、苦悶の表情からも何か異変が起こったのは明らかだった。
「これまでも何回か肉離れしたことはあったんですけど、そういう感覚とはちょっと違っていました。痛い場所がどこかも分からない、不思議な感覚だったんです」

 担架でピッチの外に運ばれてすぐにチームドクターのチェックを受け、病院に移動してMRI(磁気共鳴画像)検査に入る。左ハムストリング付着部損傷で手術が必要という結果に、彼の頭のなかは真っ白になる。全治6カ月の見込み、すなわちそれは今シーズン絶望を意味していた。
 ケガから3日後に手術を行ない、無事に成功。ただベッドに横たわる入院生活は気を抜くとすぐ、失望に身をむしばまれてしまう。
 当時の心境を、彼は神妙な面持ちで振り返る。
「今まで一度も大きなケガはなかったし、サッカー人生のなかで手術することもないだろうって勝手に思っていたところがありました。(ケガをしてみて)いろんな選手がこういう経験をしてきたんだなって。ただ体がどうこうというより、メンタル的に地獄でしたね。俺ここで何してんだろうって、落ち込むっていうレベルじゃ全然ない。どこまで落ちるんだっていうくらい」
 独走していた首位・川崎フロンターレをようやく視界に入れたなかでの離脱。その事実を思うだけで、チームの力になれないもどかしさばかりが募る。ベッドでエリートリーグの試合を観ていても、自分がそこに立っていないことに「悔しいというよりも悲しい」。寝ようとしても眠れない。広がり続ける失望を食い止めることができなかった。
 すがったのが、家族だった。妻に電話を掛け、思い切り弱音を吐いた。妻の言葉、そして1歳半になる息子の声が何よりの薬になった。
 びっくりするほど気持ちが楽になったという。
「復帰して活躍するんだっていう気持ちが凄く湧いてきたんです。気持ちを共有できる相手がいるって本当に大きいなと実感しました。もちろん息子からも元気をもらえて、家族に助けられました」
 9月11日のアウェー、サンフレッチェ広島戦では自分の背番号「4」と応援メッセージが入ったTシャツをチームメイト全員がウォーミングアップで着ていた。事前にTシャツの画像がLINEで送られてきた。うれしくてたまらなかった。

 退院後はリハビリを順調にこなし、11月に入ってからはボールを蹴れるようになる。ランニングのスピードも徐々に上げている。
 落ち込んだのはあの1回だけ。強い気持ちをつくって、リハビリに励むことができているのが今だ。

 東京ヴェルディから横浜F・マリノスへ完全移籍したのは2018年8月のこと。ポテンシャルの高いセンターバックには複数のクラブからオファーが届いていたものの、すべて断っていた。スペイン人のミゲル アンヘル ロティーナ監督のもとで成長できている実感があったからだ。ただ唯一、アンジェ ポステコグルー監督率いるF・マリノスの攻撃サッカーには関心があった。最後の最後にオファーが舞い込み、新たなチャンジに踏み出すことにした。
 移籍の発表からわずか8日後、いきなり先発のチャンスが巡ってくる。
 8月22日、ニッパツ三ツ沢球技場で開催された天皇杯4回戦、対ベガルタ仙台。3バックの左に入り、前半40分には同じく新たに加入した久保建英のクロスを右足で合わせてゴールを挙げる。試合は敗れてしまったものの、インパクト十分のデビュー戦となった。
 今でもあの試合のことはよく覚えていると畠中は言う。

 「ディフェンスというよりもどんどん前に行こうみたいな。ボスの求めているのがそういうプレーなので、まあデビュー戦だし、失うものもないし、チャレンジしていこうと思って。試合には負けてしまったけど、楽しめた試合ではありましたね。ヴェルディでロティーナに出会ってポゼッションスタイルやビルドアップを磨いてきましたけど、自分がやってきたパスの技術、足もとの技術を活かせるなと感じました」
 ただリーグ戦は5試合の出場にとどまった。控えセンターバックから序列を崩すことはできなかった。

 レギュラー獲りを誓った翌2019年シーズンはケガによる出遅れもあって1次、2次キャンプともに立場が変わることはなかった。
 いら立ちが募っていく。
「前年(2018年)は基本的にドゥシャンが出られないときに僕が出る形で、勝ってもいたし、自分のパフォーマンス自体も悪くなかった。だからチャンスさえもらえれば、絶対につかめる、と。自信過剰なところがあったので、出られない理由がまず分からない。キャンプでもどうして使ってくれないんだろうという思いでした」
 もし移籍の話が来れば、思わず飛びつきそうになるくらいの心境。それでも「自分のできるパフォーマンスをやり続けるしかない」と言い聞かせた。
 チャンスは突然にやって来る。
 開幕戦前、最後の練習試合で先発起用され、指揮官の期待に応えた。
「うれしかったというよりも(起用されて)びっくりした」
 たった一度のチャンスを逃がさなかった。開幕からスタメンを飾り、日本代表でも3月に初招集のボリビア戦で先発デビューして以降、定着していく「超飛躍」のシーズンとなる。
「(代表に)呼ばれるとはまったく思っていなかったです。ましてやデビューなんて(笑)。自分の持ち味とするクサビのパスや相手をいなすパスがミスなくやれて、自信を持ってチームに戻ることができたのも大きかったと思います」

 自信を身につけて目の前にあるステージをホップ、ステップと駆け上がっていく。成長のサイクルに入るとは、まさにこのことだった。
 7月27日にはプレミアリーグのマンチェスター・シティと日産スタジアムで対戦。シティの試合は欠かさずチェックしてきただけに、ワクワク感が止まらなかった。
 ゴール前でベルギー代表のケビン デブルイネに切り返され、左足で先制点を決められた。ワールドクラスを肌で感じることができた。

「プレミアの試合だと、デブルイネ選手はあそこからグランダーでクロスを入れてくるんですよ、絶対に。それだと思ってコースを切りに行ったら、キックフェイントできれいにかわされて。臨機応変にやってくるんだなって衝撃を受けました。ビビる、ビビらないの話じゃなくて、貴重な経験なんだからみんなとにかく楽しもうとしていました。もちろん僕も」
 自他ともに認めるちょっとした人見知り。自分が前に出ていくことはあまり好きじゃなかった。
 しかし一つひとつの経験が、畠中のマインドに変化を及ぼしていく。ピッチでのコーチングはもちろんのこと、ロッカールームやピッチ外でも積極的に自分の言葉を発するようになった。
「代表で素晴らしい経験をさせてもらって、自分がF・マリノスを引っ張っていかなきゃなという意識を持ち始めたのは事実です。声一つでチームが同じ方向に向くことができるのであれば、そういうのは自分からやっていかなきゃいけないって。プレーでも自分のパスで得点を演出できるように常に出しどころを意識していました」

 日本代表に合流したときのこと。
 海外組を交えて、J1の後半戦を占うような話題になった。F・マリノスの上位にいたFC東京、鹿島アントラーズどちらかの優勝じゃないか、という声に、思い切り反発したのが畠中だった。
「いやいや、優勝は絶対にウチなんで!」
 チームを代表してここにいる。この経験を持ち帰ってチームに活かす。自分にもチームを手応えを感じていたからこそ、代表の先輩たちが相手でも譲らなかった。
 畠中の言葉どおり尻上がりに調子を上げていくチームは11月23日のアウェー、松本山雅FC戦に勝利してついに首位に浮上する。続く川崎フロンターレ戦に4-1と快勝し、勝ち点3をつけて最終節のホーム、FC東京戦に臨む。
 攻撃参加あり、縦パスあり、インターセプトあり。冷静と積極、その2つを存分に発揮してついに歓喜の瞬間を迎える。

 畠中は今もその興奮がよみがえってくるという。
「喜びが凄すぎて、もう忘れられないです(笑)。想像したものよりも何倍も感動したし、絶対に想像できないです」  開幕レギュラー、代表、そして優勝。
 このようなシナリオが待っているとは想像していなかった。想像したものよりも数倍、成長できた自分がいた。

 しかしながら人生良いことばかりとは限らない。
 いくら努力しても報われないこともある。
 コロナ禍にさらされた2020年は一転して苦しいシーズンとなった。自分にとってもチームにとっても。
 開幕戦を落とし、7月からリーグ再開となっても前年のように勝ち点を積み上げられない。
「結果がついてこないとどうしても2019年の自分、2019年のチームと比べてしまう。できていたものが今どうしてできないんだろうって。どんどん悪循環になって勝ち点を取りこぼしたりして苦しかったですね」
 それ以前も悪循環に陥りそうなことは何度もあった。ただオフになればサッカーから頭を完全に切り離して家族とどこかにお出掛けしてリフレッシュすることで気持ちを切り替えてきた。だがコロナ禍のなかでは外出もできない。自宅と練習場の往復に限られ、うまく切り替えられなかった。ただここを言い訳にするつもりもない。
「自分の未熟さ、経験のなさが出てしまっただけ。ほかのチームでもうまく切り替えてやっていた選手もいましたから」
 9月16日、ホームの清水エスパルス戦では開始早々に負傷退場し、2週間の離脱を強いられた。リーグ終盤戦もなかなか勝利をつかめず、ACLもラウンド16で敗退。悔しさばかりが募った。

 勝負の2021年――。
 チームを引っ張って、日本代表にも復帰して、再び「超飛躍」を手に入れるシーズンにしようと心に誓った。その決意のあらわれが、井原正巳、波戸康広、栗原勇蔵らがつけてきた背番号4を引き継ぐことだった。

 元々、大好きな番号だった。
「ヴェルディのジュニア時代、最初にもらった番号でした。いろんな海外の選手の映像を見せてくれるんですけど、セルヒオ・ラモス選手をはじめてセンターバックの4番ってカッコいいなと思って好きになりました。F・マリノスでは空き番号になっていて、僕もいろんなものを背負いたいと思ってクラブにお願いして、つけさせてもらったんです」
栗原勇蔵クラブシップキャプテンにも「つけさせてください」と了解を得るためにLINEを入れた。
 すると、こう返信がきた。
「元々4番は俺のもんじゃない。気負わず頑張れよ」
 この一文だけで随分と気持ちが楽になった。
 ただ、実際に背負ってみると想像以上に重かった。これまでも責任感を持って戦ってきたつもりだが、クラブの伝統がドンとプラスされた。
「最初、重すぎて44番に戻したいって本気で思いましたもん(笑)。だけど成長するためにはこれを乗り越えていかなきゃいけない。4番を背負ってきた方々は素晴らしいプレーヤーばかりなので、いつか肩を並べたいっていう想いがあります」
 チームは開幕3戦目で初勝利を挙げ、順調に勝ち星を伸ばしていく。3月には日本代表に復帰し、カタールワールドカップ2次予選モンゴル戦にも出場した。
 再び成長のサイクルに入った。パス、ビルドアップをさらに一段引き上げつつ、「背負う」ことによって守備の迫力が増している。
 2021年シーズンの畠中を象徴するゲームの一つが、1-0で勝利した6月27日のアウェー、徳島ヴォルティス戦だった。
 右コーナーキックからヘディングで合わせたオウンゴールを誘発した攻撃面の貢献もさることながら、縦へのロングパスで裏を取られながらも背後からのタックルでボールを蹴り出してシュートを打たせなかったシーンは見事の一言に尽きた。

 粘り強く、判断良く。
「攻撃に重きを置きつつも、失点を減らしていこう、と。僕だけじゃなくてチアゴ(マルチンス)、(高丘)陽平を含めてみんな守備のほうにもベクトルを向けていました。ゼロで抑えられればセンターバックも頑張ったんだなって思われるじゃないですか」

 チームも自分も好調を維持していた最中、あの大ケガがあった。ショックが大きかった分、立ち直ってからは「やってやろう」という気持ちが無限大に広がっている。
 畠中は言う。
「サッカーをやれることが当たり前じゃないんだってシンプルに思うことができたし、リハビリしていてもチームメイトから〝きょう軽快じゃん〟とか声を掛けられると励みになるし、何よりも家族に支えられていることを本当に感じています。自分一人だったら、絶対に頑張れていなかった」
 自他ともに認める人見知りは、自他ともに認める負けず嫌いである。その炎こそが彼の「超飛躍」を後押してきた。レギュラーを勝ち取るために、定着するために、優勝するために。満足することなく、先を行こうとできたのも負けず嫌いがあったからだ。
 ヴェルディ時代の2018年にはこんなことがあった。
 右足を負傷して「マジで蹴れないレベル」だったが、ポジションを譲りたくなかったために離脱しなかった。ならば、と左足の精度を必死に上げてカバーした。右足が治ってからも左足のキックを積極的に使うようになった。
 ケガなんかに負けてらんねえ。それは今も同じ、いやそれ以上に。
「絶対にみんなの想像の上を行く選手になって戻りますよ」
 サラッと答える一言が力強い。
 シンは新生のシン、進化のシン。
 負けず嫌いは今、最高潮に達している—―。

(終わり)