まりびと:水沼貴史&水沼宏太(前編)
無料記事 コラム・レポート インタビュー まりびと レジェンド 水沼宏太
facebook シェア twitter ツイート LINE LINEで送る

水沼貴史と水沼宏太。
父はクールに、息子はエネルギッシュに。
父は一筋に、息子はクラブを回って再び横浜F・マリノスに。
プレーも、生き方もまるで違う。
父は息子を「小さいときから認めている」と言い、息子は父を「ずっと憧れの存在」と語る。
父の日に送る親子ストーリー。前編は父・水沼貴史の物語--。

Text by 二宮寿朗


 1995年7月30日、三ツ沢球技場は熱気に包まれていた。
 木村和司、引退試合――。
横浜マリノスとヴェルディ川崎のスペシャルマッチは現役とOBが入り混ざって華やかな雰囲気を醸し出し、選手たちが入場してくると大いに盛り上がる。
 記念撮影の際、主役の木村和司の隣には長年コンビを組んでいた水沼貴史がいた。その2人の間にマリノスのユニフォームを着込んだ5歳のチビッ子が緊張した面持ちで立っていた。名前を、宏太という。

「初めて宏太を三ツ沢のピッチに連れていったんですよ。みんなに可愛がられて、ヴェルディの選手も声を掛けてくれてね。ロッカーのなかでマリノス君に抱っこされて、写真を撮って……。何故連れていったかと言うと、自分のなかで宏太にバトンを渡したかった。手をつなぎながら入場して、みんなと写真も撮って……」

 61歳になったマリノスの〝エイトマン〟は今も若々しい。26年前の記憶は、今も瑞々しく残る。
 木村の引退試合の翌日、彼は現役引退を表明する。プレー同様に、去り方も実にスマートだった。先輩の引退試合を成功させたうえで発表するのが筋だと考えていた。実は水沼にとっても引退試合だったのだ。静かに去るのは、彼らしくもある。
 この1995年シーズンが始まる前、当時としては異例の半年契約を結んでいる。クラブ側からの打診ではなく、自らの希望であった。
「1994年シーズンで和司さんが引退して、監督も環境も変わって、1年できるかどうか分からなかった。(半年後に)自分がまだできるかどうか判断したいって、ワガママを聞いてもらうことになりました」
 開幕戦こそ出場したものの、ケガで離れていた選手が戻ってくるとポジションを失ってしまう。まだできるという思いと、気持ち的にもう限界かなという思いが、複雑に絡まりあっていた。だがアルゼンチン人指揮官のホルヘ ソラリが5月に退団。水沼にとっては日産時代の先輩でもある早野宏史が新監督に就任。チームの危機に団結したチームは勝ち点を積み重ね、初のステージ優勝を果たすことになる。
「ひょっとしたらチャンスあるかもなと思って、早野さんに聞いたんです。そうしたら〝もういいんじゃないか〟って。じゃあもう半年でやめようと、そのとき自分の心のなかで決めた感じでしたね。チームもステージ優勝したから、やり終えた感というのもあった。悔いはないですよ。(体力的に)まだできるとは思っても、ほかのチームには行きたくなかったから。自分が愛したチームでユニフォームを脱ぎたいと思った」

 実は木村の引退試合の後に、水沼は練習試合に出場している。そこでゴールを挙げる活躍を見せ、「結果を出せて、本当に自分のなかで区切りがついた」。自分の通算記録には書き込まれない一発。結果にこだわってきた人の、見事なフィナーレであった。

 クラブの基礎を築いた功労者であることは言うまでもない。
 日産自動車サッカー部初タイトルとなった1983年度の天皇杯優勝を皮切りに、2年連続の3冠(JSL、天皇杯、JSL杯)達成などすべてに絡んだ。木村とともに日産サッカー部の顔であり、そして日本サッカーの顔ともなった。

(花の83年組)

 法政大学を卒業した1983年に日産自動車サッカー部に入団。水沼、柱谷幸一、田中真二、越田剛史、杉山誠、境田雅章という将来を有望視された6人のタレントが、一挙に入団してきた。「花の83年組」が部の歴史を変えていくことになる。
 入団の決め手は、加茂周監督の存在だったという。

「加茂さんがいるからというところが俺たちにはあった。1部、2部に行ったり来たりのチームでしたけど、和司さんがいて(金田)喜稔さんがいて俺たちいったら強くなるんじゃないの、と。攻撃的で面白いサッカーをやってそうというのもあった」

(左:加茂監督  右手前:水沼貴史)

 最新の設備にも惹かれた。個々のロッカーに、筋トレルームもあった。当時は社員として入団するため、大企業に就職できたことを両親も喜んでくれた。ただ希望としていた「本社勤務」ではなかったが。
「辞令を見たら追浜工場。朝8時から10時半くらいまで生産課で働いて、終わって寮で食事を済ませてから清水(秀彦)さんが運転するキャラバンに乗って、グラウンドへ。僕ら新人なのに、割と上がるのも早かった。またキャラバンで帰っていくっていう毎日でしたね」

 同期がどんどんと試合に出ていくなか、水沼だけはなかなかチャンスがもらえなかった。悔しいが、同じポジションの先輩より自分のほうが上だとは思えなかった。同期のなかでJSLに出場したのは最後だった。

 評判を徐々に上げていくことになる。
 天皇杯準決勝のフジタ工業戦で1ゴール1アシストと活躍。日本が誇る名ストライカー、釜本邦茂のラストマッチとなるヤンマーディーゼルとの決勝でも水沼は得意のドリブルで相手を切り裂き、堂々たるプレーでチャンスをつくり出していく。
 2-0、初優勝。創部初タイトルの歓喜の輪に、笑顔の水沼がいた。
「本社近くにある銀座のホテルにみんなで前泊して、スエヒロのステーキを食べさせてもらうんだけどそれがメチャクチャ美味くて。決勝に行ったら毎回これ食べられるんだと思うとそれがモチベーションになったくらい(笑)。加茂さんはそういうところうまいなって思いましたよ。ただ、浦和南高時代に全国高校選手権の開会式を終えてから、天皇杯決勝が行われるという流れがあって、ロッカーに戻ったら今から試合をする選手たちがアップを始めていて、それが凄くカッコ良かった。だから天皇杯決勝はずっと憧れの舞台でした」

 一気に飛躍を迎えていく。
 1984年から日本代表に招集されるようになり、日産でも中心選手としての風格が出てくる。水沼は勝負に出る。3年目から終身雇用を捨てて、嘱託契約に切り替えたのだ。
「まだプロリーグもないのに夢っていうのはおかしいかもしれないけど、立場的にはプロのサッカー選手みたいになれる。もし自分が野球をやっていたとしたら、迷うことなくプロの世界に入るだろうから。会社の人にも、部の人にも驚かれましたよ。でも覚悟を決めてやるしかないと思った。やりたいことをやってお金になるなら、それが一番いいと思った」
 結果が出なかったら当然クビになる。朝、仕事をしていた時間を個人トレーニングや準備に充て、サッカーだけの生活にシフトしていく。
 1986~87年シーズンは歴代最多となる17アシストをマークして〝アシスト王〟となるとキャプテンを務めた88~89年シーズンから2年連続で3冠を達成する。日産が黄金期を迎えるなかで、水沼にはある思いがあったという。
「アシストの記録をつくる年に代表から落とされたんです。攻撃でチャンスメークするところ、点を取るところは自分のストロングとすると、守備のところはウイーク。ある試合の後にウイークを指摘されて石井(義信)監督から〝もう呼ばない〟と言われたんです」
 彼は即座にこう言葉を返したという。
「俺、絶対、代表に戻ってきますから」
 自分の価値を認めてもらうには、ストロングで際立つしかない。この決意が17アシストにつながっていく。
「いいパスを出したとしても点を決めてくれる人がいないとアシストにはならない。その意味では周りに感謝しかない。攻撃的なチームじゃなかったらというのもあるけど、それもこれも後ろがしっかり守ってくれて、自由にやらせてくれたから」
 周りが理解してくれるから思いどおりのプレーができる。自然とベクトルはチームへと向かっていく。結果を残して、宣言どおりに代表に復帰。日産でも代表でも活躍を遂げ、20代後半に入っていた水沼はまさに円熟期を迎える。
 そんな折にチームのキャプテンに就任した。ブラジル代表のキャプテンを務めてきたオスカーの加入も大きく、個性派集団をまとめて上げていくことになる。心掛けたのが、コミュニケーションだった。

(左:加茂監督   右:オスカー)

 水沼は苦笑いで振り返る。
「メチャクチャ面倒くさい人ばかり(笑)。でもまとめると言っても自分だけの力じゃないから、一つの方向に行けるようにみんなが協力してくれた。それには自分が先頭に立ってやっていかなきゃいけないところもありましたけど。僕がやったのは、みんなのキャラクターを知ろうとしたこと。言葉は悪いけど、泳がしていい人もいれば、きつく言わなきゃいけない人もいるから。
 ただ何をするにしてもよく話したっていう記憶がありますね。連係で裏を取る動きだって〝今だ〟っていうタイミングを相手に分かってもらわないといけない。(パスをくれる人に)ボールを要求しながら逆に行くって伝えておけば、そこはパスを出さない。自分がこうボールを持ったら、ここを狙って動いてほしいとか、持ち方で角度をつくった瞬間が裏のタイミングだよ、とか。今は映像があって分析してこういう形って分かるけど、僕たちのころが絵のないところでどれだけみんなが同じイメージを描けるかが大事だった。そのためには話をしていくしかなかった」

 プライベートにおいては1988年に結婚し、1990年2月に第一子の宏太が生まれる。水沼パパはイクメンの走りであった。
「宏太が生まれて、どうしようって思うくらいメチャクチャうれしかった。抱っこひもで宏太を胸の前に置いて横浜そごうのエスカレーターに乗っていたら、結構ジロジロと見られて(笑)。父親がそうやっているのが、まだ当たり前じゃない時代でしたから。離乳食に切り替えるときは大変でしたね。お母さんから離さないといけないので寝る前に宏太を抱っこしてあやしてね。でも大変って言ったけど、(子育ては)楽しかった。サッカー選手になってほしいとか別にそんなこと思っていなくて、ただただ元気に育ってほしい、と。ただ30歳になる年に生まれたから、自分のプレーを見てもらいたいなとは思いましたけど」

 1992年には長女も誕生。サッカーも、プライベートも充実していくなかで、大きな転機が訪れる。日本初のプロサッカーリーグとなるJリーグの誕生である。水沼の心が震えた。
 ひと呼吸置いて、彼はこう語る。
「サッカーにおいては自分の人生で一番大きかったのかもしれない。自分がやってきたことに自負はあったけど、社会的にJSLはプロじゃないし、練習を終えて午後に自宅に戻ると、何の仕事をしている人だろうって周りから思われているわけですから。Jリーグができたら、履歴書に胸を張ってプロサッカー選手って書ける。社会的な認知を得ることが何よりも大きかった。Jリーグができると聞いて、心の底からうれしかった。自分たちがやってきたことが認められたとも思えたから」

 あの日の感動は忘れない。
 1993年5月15日、東京・国立競技場で開催されたJリーグ開幕戦。日産対読売クラブの黄金カードは、横浜マリノス対ヴェルディ川崎となってオープニングマッチに選ばれた。
 会場入りする前から、水沼の胸は熱くなっていた。
「都内のホテルから国立にバスで向かっていくんだけど、競技場の近くになってくると人が段々と多くなる。まだチーム専用バスなんてないから普通のバスにクラブのステッカーを貼りつけていて、マリノスの選手を乗せたバスだと分かるとファンの人たちがチケットを掲げるんですよ。これから見に行くよ、みたいに。旗を振ったり、手を振ったり、その光景を目にしただけで、これだけの人に見てもらえるんだと思っただけで、凄く気持ちが高まりましたね」
 会場はファン・サポーターで溢れ、新しい時代を告げるセレモニーにも感動した。
 ウォーミングアップを終えると、日本代表の先輩で、ヴェルディの守備の要である加藤久に呼び止められた。
「いよいよだな」
 その一言によって、抑え込んできた感情が噴き出してしまう。涙が溢れ出ていた。慌ててシャワールームに駆け込んで、顔を洗った。チームメイトにも、対戦相手にも気づかれないように。彼はクールなんかじゃない。クールに見せているだけだ。 「スタンドもマリノス側とヴェルディ側の応援がきれいに分かれていて、本当に凄い雰囲気で。ファン・サポーターの人も、このときを楽しみにしてくれていたんだなと。その期待に応えなきゃと思いましたね」

 伝説の一戦はヴェルディに先制され、0-1で前半を折り返す。
 後半早々に、木村和司の意表を突いたショートコーナーからエバートンのゴールで同点に追いつくと、同14分、井原正巳のフィードから木村がヘディングでつないだボールを水沼が受け取ってドリブル。相手DFの間を突破してシュートを放ち、GKが弾いてこぼれたところをラモン ディアスが押し込んだ。これが決勝点となった。

「ちょっとこじつけかもしれないけど」と前置して、水沼は言葉をつなげた。
「これからJリーグを引っ張っていくであろう選手からのボールを、これまで頑張ってきた選手がつなげて、最後はJができたことで来てくれたアルゼンチンのスターが決めてくれるっていうストーリーがあった。だから俺があのとき決めなくて良かったんです(笑)」
 超満員のスタンドに、家族を招待していた。3歳の宏太も応援してくれていた。
 自分のプレーを我が子に見せたい――。最高の舞台でかなえられることができたのは、たまらなくうれしかった。
 初ゴールは11月、三ツ沢でのガンバ大阪戦。スタンドにいる家族に向けてガッツポーズを繰り出している。Jリーグ開幕から2年半。日産、マリノス一筋の偉大なる背番号「8」は35歳でユニフォームを脱いだ。

 引退後は解説者などメディアに活躍の場を移した。
 宏太はスクスクと育ち、小2でサッカーを始め、横浜F・マリノスのジュニアユースに進む。父はメディアの仕事を「10年でひと区切り」と考え、指導者を目指して母校・法政大学のコーチを務めながらS級ライセンスを取得した。息子は選手として、父は指導者としてサッカーに向き合う日々を送った。
 宏太はジュニアユースで完全なレギュラーとは言い切れず、ユース昇格も微妙だった。それでもユース昇格を勝ち取ると、世代別代表に選ばれるなど一気に台頭。2007年のU-17ワールドカップにはキャプテンとして出場している。
 父は、ああだこうだと言ってきたつもりはない。むしろ見守ることにした。言わなくても、乗り越えていく力があると感じていたからだ。
「自分の息子ということで相当苦労したとは思います。でもアイツは、自分で解決していく。それは凄いことだし、その後の宏太の経歴を見てもそう。僕は小さいときから宏太のことを認めています。リバウンドメンタリティーどころじゃないですよ」
 一人の男として水沼は、息子を認めていた。

 2006年、指導者として11年ぶりにチームに戻ってきた。岡田武史監督のもと、コーチに就任した。だが8月に成績不振を理由に岡田が辞任したことで、水沼がバトンタッチを受ける。

 就任して一発目の試合が8月27日のアウェイ、京都パープルサンガ戦だった。
 思い出していたのは恩師・加茂のマネジメントであった。
「天皇杯決勝戦の前に加茂さんがパッと俺たちのほうを見て〝お前たちがそういう目をしているなら何も言うことはない。さあ、行こう〟と言ってくれたことであって、そのときに武者震いしたんです。同じようにとはいかないとしても、監督が変わったショックを取り除いて選手たちにピッチで躍動してもらいと思いました」
 試合前のロッカーで、水沼は一人ひとり名前を出してその選手のストロングポイントを挙げていった。彼らの目の色が変わっていくのを感じた。ここまで3試合勝ちなしの12位。チームは何か吹っ切れたかのように爆発して4-0と快勝した。そののちは残留争いに巻き込まれることなく、9位でフィニッシュして緊急事態を乗り切っている。
 翌2007年は再びコーチに戻り、息子・宏太がトップチームに昇格するタイミングで父はチームを離れることになる。
 解説者として、父として、プロの先輩として息子のことを変わらず見守ってきた。

「彼はF・マリノスを一度離れることになったけど、どこかにF・マリノスへの想いというのはずっと残っていたと思います。チームを捨てて出ていったという人もいたけど、それは絶対にあり得ない。オファーが来て、戻ってくる決断を聞いたときは僕も妻も、娘もみんなうれしかった。アイツはこのままじゃダメだってチャレンジして、どんどん向上心を持ってやってきたからこそ、またここにたどりついた。育ててもらったチームに恩返しするために、戻ってきたというのもあると思います。みなさんに〝宏太が戻ってきて本当に良かったね〟と言ってもらえるように、宏太にも頑張ってもらいたい」

 横浜F・マリノスを舞台にした親子2代にわたるストーリー。
 水沼貴史にとって、F・マリノスとはどのような存在なのか――。
 リモート取材の画面に映るレジェンドは一度姿勢を正してから、再び語り始めていく。
「僕にとっては消えることのない存在。どんなに違う環境で仕事をしていたとしても、心のどこかに必ずある。引退するときに言ったことがすべてなんですよ。愛しているチームでやめたい、と。それはもうずっと愛してきていますから。だから(チームを)離れてから厳しいことも言ってきた。今だってちゃんとしたクラブハウスを持たないチームじゃダメだと言っている。でもそれって、ちゃんとやろうぜっていう愛情の裏返しみたいなもの。何かあればチームに戻れるかもなっていう思いは今だってありますよ。
 新しいことがどんどん入ってきてブラッシュアップ、バージョンアップしていかなきゃいけない。変化していくこと、変化についていくことは大事です。でもその一方で、脈々と受け継がれているところも残してほしい。自分たちが選手としてつむいできたものを宏太たちが受け継いでくれているのはうれしい。だから宏太もまた違う形でつむいだものを次の世代の選手たちに渡してほしい。それが自分の願いなのかな」
 クールに、スマートに見せているだけ。
 クラブに対する愛情は心の内側でマグマのように今も燃え盛る。

 ピッチに向かったあの引退試合。息子の手の感触は今もしっかりと覚えている。
 一人の男としての生き様を、こだわりを。
 握り締めた手のひらに、思いを託して--。


(後編に続く)