30周年記念コラム②:アジアカップウィナーズカップ
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Text by 根本正人

 いよいよAFCチャンピオンリーグ2022グループステージが始まるが、横浜F・マリノスがアジアのクラブの頂点へ立つことを期待している。
 かつては、各国のリーグチャンピオンが争うアジアチャンピオンズカップとカップ戦(天皇杯)の優勝チームが争うアジアカップウィナーズカップと分かれていた。日産自動車サッカー部時代の1989年には、このアジアチャンピオンズカップに準優勝したことがあるが、アジアカップウィナーズカップは、日産として、また横浜マリノスとして2連覇の偉業を達成した。

かつてのアジアでの戦い

 1991年の第2回アジアカップウィナーズカップでは、ホーム&アウェイ方式で行われ、日産自動車サッカー部として参戦して決勝でサウジアラビアのアル・ナサルと対戦。リヤドのアウェイで1-1の引き分け、ホームで5-0と快勝して初優勝を遂げた。
 翌1992年も、この大会に参戦。準々決勝から出場となったが、初戦は前年の準決勝で対戦したインドネシアの強豪ププク・カルティムが相手だった。日本から首都ジャカルタに飛び、そこからバリグパパンに移動し、さらにププク・カルティムの本拠地があるボルネオ島のボンタンへ小型セスナ機に分乗して行った。ジャングルに覆われた赤道直下の街へ、そのジャングルをかすめて飛ぶ小型機は、ガタガタと揺れ生きた心地はしなかった。前年の対戦の時は、柱谷幸一、哲二兄弟もいて、もし万が一のことがあったら大変だと、兄弟を別々の飛行機に乗せたくらいだ。
 当時は、監督、コーチなどのチームスタッフと選手を除き、他は団長とマネージャーに私の3名という最少人数での遠征だった。練習や試合の準備、食事のメニュー選び、荷造り、マネージャーズミーティングなど何でもやった。広い集会場以外にホテルのないボンタンでは、選手、スタッフは数人ずつに分かれてバンガローに宿泊した。練習や試合にはマイクロバスで、各バンガローを回って選手を拾った。ある朝起きると、バンガローの入り口前には1メートルもあろうかというトカゲがいて肝を冷やした。

 準決勝の相手は、ベトナムのクアンナム・ダナン。深夜にホーチミンに到着。翌日、ベトナム戦争最大の激戦地の一つと言われるダナンに飛行機で移動。空港バスは、行先がなぜか「平安神宮」と書かれたボンネットバスだった。今や発展著しいベトナムだが、とにかく気を使ったのは食事。歓迎レセプションで出されたナマズの塩辛は、さすがに口を付けられなかった。だが、フランス領だったこともあり、フランスパンとオムレツはとても美味しかった。病人も出さずに無事に帰国したら、留守の間に選手寮では広島のファンから送られてきた生牡蠣を食べて腹痛を起こした選手がいたと聞いた。
 決勝は、第1回大会に優勝したイランの強豪、ペルセポリスFCと対戦。1993年1月初め、テヘランでの第1戦は、10年ぶりの大雪でスタジアムの積雪で深刻でとても試合の出来る状態ではなかった。結局、AFCの判断で試合は延期となった。

 帰国日は、ホテルから大渋滞の中バスで空港に到着。かなりの欠航が出ていたが、事前にフライトできるとの情報だった。しかし、結局は悪天候で飛ばない。すでにバスは帰した。ホテルもチェックアウト済み。何とかバスに迎えに来てもらう連絡は取れたが、何時間も空港に缶詰め。その間にホテルを取り直し、日本の旅行会社に電話して帰路の便を取り直した。確か正月明けの4日か5日だったと思うが、まだ正月休みの所もあって思うように連絡はとれなかった。ようやく迎えのバスが来て、ホテルに辿り着いた時は皆がヘロヘロ。空腹で待っていただけにまずは暖かい食事をとった。日本サッカー協会から帯同していたスタッフと私は、ほぼ徹夜で日本の各方面に連絡をとった。そうしてミラノ経由での帰りの便も取れ、なんとか日本に着いた。

大会連覇の偉業達成

 日程変更となった第1戦は、1月17日に東京・国立で行われ、1-1の引き分け。1989年に加入し、数々のゴールでクラブの栄光に貢献してきたエースのレナトが得点して自らの最終ゲームに花を添えた。
 第2戦は、4月16日にテヘランで行われた。私は、さすがにJリーグ開幕を5月15日に控えて忙しく同行は出来なかった。イランのナショナルスタジアムは超満員で12万と言われる観客で埋まったそうだ。大声援を受け攻めるペルセポリスFCに対して良く守り、逆に70分にカウンターを仕掛け、ビスコンティからのパスを受けた水沼が左サイドを突破しクロス。これを神野がダイビングヘッドで決めて決勝ゴール。

優勝を遂げたものの、興奮する観客から爆竹が投げ込まれるなど騒然。選手、スタッフはセンターサークル付近に1時間以上待機していたと、GK横川から聞いた。平川キャプテンが優勝カップを受け取り、この大会2連覇を達成。
 1993年も第4回アジアカップウィナーズカップに3連覇を目指したが、すでにJリーグも開幕した中、準決勝で途中棄権をせざるを得なかった。
 当時は、まだまだクラブがアジアで戦うには日程的にもハードで環境も整っていなかった。それでも、アジアで戦ったことは、若い選手たちには大きな経験となったことは間違いなかった。スタッフとして参加し、同じく貴重な経験を積むことが出来た思い出深い大会であった。


根本正人

 日産自動車サッカー部のプロ化業務を担当し、横浜マリノス株式会社では広報部、商品販売部などでクラブ運営に長く尽力。現在、神奈川新聞でコラム「マリノスあの日あの時」(毎月第1、第3金曜掲載予定)、好評連載中。