勇 4EVER TRICOLORE勇 4EVER TRICOLORE

4EVER TRICOLORE

18年間戦ってきた見えない敵

「オレは、自分のことがそんなに好きじゃないんだよね」
そう言った栗原勇蔵は、苦笑いを浮かべていた。
周りの人々は彼に大きな期待をかけてきた。その圧倒的な身体能力に、誰からも好かれる人柄に、そしてリスペクトされて止まない器の大きさに。もっとできる、もっとすごい選手になってほしい、と。

「自分以上に、周りの人はもっとオレのことが好きみたい。だからかける期待がまったく違う。でもオレは難しいと思ったことに対して、自分で抑えを利かせてしまう悪い癖があるから。自分のことは自分が一番分かっているつもり。そんなこと見えなくなるくらいのほうが選手としては良かったのかもしれない」

自分自身への期待値と、周囲からの期待値のギャップ。
「多少の勝負強さや運はあったかもしれないけど、そこまで絶対的な自信があったわけではない。反対に、怖さや不安な気持ちがあった。だから逃げる余裕を持ってやりたかった部分はある。周りからは足りないと思われたかもしれないけど、怖さやビビった気持ちを抑えながら頑張ってきた。トータルしたら精一杯やったつもりなんだよ」

栗原が18年間戦ってきた見えない敵の正体だった。
「オレはアスリート向きじゃないと思う」とも。誰よりも恵まれ、さらに鍛え上げた体躯なのだから、他の選手が聞いたら心中穏やかではいられないだろう。

昨年限りで引退した中澤佑二は幾度となく「勇蔵のポテンシャルはすごい。うらやましい」と言っていた。たゆまぬ努力で輝かしい実績を築き上げた中澤が本気でうらやむ潜在能力を備えている男。それが栗原だ。

それを聞くと、一笑に付した後に淡々とした表情でゆっくりと言葉を紡いだ。
「結局、オレはマツさん(故・松田直樹)や(中澤)佑二さんを超えられなかった。もっと向上心や野心があれば、もうちょっといい勝負ができたのかもしれないけど、それも生まれ持ったセンスや才能だと思う。サッカーに対する情熱があの二人よりも間違いなく不足していたし、例えば佑二さんと自分ではサッカーに費やす時間がまったく違ったと思う。その時点で勝負にならなかった」

歯を食いしばって踏ん張れた理由

ちょっと謙虚過ぎる気もする。でもサッカー選手として働き盛りの20代後半、日本代表に選ばれていた頃から考えはまったく変わっていない。先人たちの後継者として語られる機会でも「あの人たちはオレとまったく別次元の化け物だから。おこがましいよ」と首を横に振ってきた。
その姿勢と思考は、おそらく幼少期から変わっていない。小学校から中学に進み、F・マリノスのジュニアユースに通い始めた時からだ。

「自分は小学生の時から横浜市選抜や神奈川県選抜に選ばれていて、チームが違うテツ(榎本哲也)や(藤本)淳吾と一緒にサッカーをやっていた。それに地元の原FCとプライマリーが試合をすることも多かったからF・マリノスの選手たちは顔も名前も、サッカーのレベルも分かっていた。

でも県外から集められてきた選手のことは知らなくて、蓋を開けてみたらオレより能力の高い選手がいっぱいいた(苦笑)。それまで何でもできていたのに、突然何もできなくなった。ポジションもFWからサイドハーフになって。中学1年生チームの中でもレギュラーか怪しいレベルだったと思う」

それからはずっと追いかけられる立場ではなく、追いかけてきた。
ジュニアユース1年目の栗原は身長160cm程度と決してサイズに恵まれていたわけではなかった。10cm以上も大きな同級生との勝負では分が悪く、「大人と子どもみたいな差があって、正直面食らった」と回想する。

同級生たちとようやく対等にプレーできるようになったのは中学2年生から3年生に進級する頃だった。
「成長期がその頃で、身長が180cmくらいまで急激に伸びた。周りよりも単純に身長が大きくなったという理由もあるけど、ヘディングのコツも掴めて。落下地点を読む力とそこに入っていく強さが必要で、単純なジャンプ力が優れていればいいというわけではない。相手の肩の上に乗る技術も必要だし、そこは感覚的な部分もあると思う。その頃からセットプレーからたくさん点を取っていて、ヘディング勝負で負ける気はしなかった」

それでもユースに昇格すると、ジュニアユース出身以外から再びライバルが現れた。さらに世代別代表に選出されてからは、同年代の日本トップクラスの選手たちとしのぎを削ることに。ユースの上級生としてはレギュラーに君臨していたが、上には上がいることも肌感覚で知っていた。だから「サッカー人生で一度も天狗になったことはない」と言い切る。

プロになってからは、前出の松田直樹や中澤佑二以外にも、ライバルは枚挙にいとまがない。事実、プロ1年目は先輩たちの熱い壁に阻まれ、リーグ戦出場0分という記録が残っている。
2年目からは徐々に出場機会を増やしていったが、本当の意味でディフェンスラインの中心になった経験はほとんどない。隣には「自分以上にサッカーへの情熱を持った選手が常にいたから」。

2015年からは出場機会を減らした。試合に出るのが当たり前の状況から、なかなか試合に出られない悶々とした日々へ。「最初は受け止めるのが難しかった」のが偽らざる本音だろう。そんな栗原が歯を食いしばって踏ん張れた理由は、他ならぬサポーターの存在にある。

「オレにはたくさんのサポーターがいてくれた。試合に出ている時はそれが当たり前で、応援してもらっていることを特別に意識していなかったよ。でもあまり試合に出られず、弱い立場になった時でもサポーターの人たちは応援してくれた。試合終盤、リードしている状況の守備固めで投入されているだけなのに、誰よりも大きな歓声が沸いていた。嬉しくないはずがない。間違いなくオレが一番声援を受けていた。そう感じていたのはオレだけじゃなかったと思う。それは一生の思い出で、サポーターに借りができたから、これからの人生で返していきたい」

夢の続き

サッカー選手には、皆に引退の日が訪れる。栗原は3~4年前からその日のことを、頭の片隅で考えていた。
体が動かなくなるような大怪我をしたわけではなく、むしろ元気いっぱいだ。だがトリコロール一筋18年の男は、もう何年も前から「引退する時はF・マリノスで」と決めていた。それが自分を育ててくれたクラブと、支えてくれたサポーターへの最大の恩返しになることを知っていたから。

「怪我がもっと少なければ、あと50試合くらいは上乗せできたかもしれないけどね」と悪戯っぽく笑いながらも、自己評価は上々だ。
「100点以上だと思うし、想像以上。プロ1年目に0試合だった選手が、トータルで300試合以上出場したわけだから万々歳でしょ(笑)。それに試合にオレは常時出場していた100の状態から突然0になるのではなく、この3~4年の準備期間で100から50になり、30になり、10になってと段階を踏んできた。だから心の準備をする時間はあったし、今はとても清々しい」

いつも客観的に、俯瞰しながら。自身が言うとおり、周りが見えなくなるくらい没頭していたら、違う選択肢や未来もあるのだろう。
それでも決断するのはあくまでも栗原自身だ。周囲はそれを見守り、尊重することしかできない。引き際が潔く、後ろ髪を引かれていないのも実に彼らしい。

そしてF・マリノスの栗原には夢の続きがある。

「これから何をやっていくのか、クラブと相談しながら、しっかり考えていきたい。悪ガキだった自分を人間として成長させてもって、偉大な先輩の背中を追いかけて、たくさん試合に出させてもらって、日本代表にも選ばれて、そして試合に出ていない選手の気持ちが分かるような経験もさせてもらった。そのすべてをF・マリノスに還元したい。アスリート向きではなかった性格が、もしかしたらこれからの人生では強みになるかもしれない」

彼は以前からF・マリノスを「家族のような存在」と言っていたが、ならばF・マリノスが栗原に期待し、深い愛情を注ぐのは当然のこと。栗原ならできる。勇蔵ならもっとできる。


オレらの勇蔵は、すごいんだから。

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