まりびと

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まりびと FW 19 仲川輝人選手

今も大切に飾ってある緑色の旗。

旗の中心にある「オレはできる」の文字周りは、激励の寄せ書きで埋まっている。
仲川輝人は専修大学4年の秋、関東大学サッカーリーグ1部4連覇を懸けて戦う中で大ケガを負った。診断の結果は右ひざ前十字じん帯、内側側副じん帯の断裂及び半月板損傷。選手生命を揺るがしかねないレベルのものだった。エース不在の専大はそれでも見事、偉業を成し遂げている。

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入院中の病室に部のマネージャーが届けてくれてから丸4年。それは横浜F・マリノスの寮でも、一人暮らしを始めた自宅でもそっと仲川を見守っている。
苦しいときも、つらいときも、逆にちょっと浮かれてしまったときも。最高の仲間との最高の絆の証が、己を励まし、諫めてきた。

「自分がF・マリノスに加入できたのも、大学のチームメイトのおかげというのもあるし、みんなへの感謝の気持ちを忘れちゃいけないなって。いろんな思いが詰まったものなのかなとは思います。頑張ってつくってもらったものだから、大切にしないといけない。浮かれてしまいそうになるときに、これを見ると初心に戻ることができるんです」

F・マリノスに加入を決めたのは、あの大ケガから1週間後のこと。
大ケガを負った失意ではなく、希望を持って。

「何回もキャンプに参加させてもらって、感覚が合っていたというか。馴染みやすくて、(栗原)勇蔵くんとか見た目が怖い先輩も、近くで接してみると実は後輩思いでやさしくて(笑)。
 ケガをして次の日ぐらいまでは凄く落ち込みましたけど、やれることと言ったらケガを治すことしかない。ケガをしてからもクラブの人は声を掛けてくれたし、相談に乗ってくれてアドバイスもいただいた。ここでお世話になりたいなって思いました」

彼は運命に導かれるようにして、トリコロールのユニフォームを選んだ。 加入後はリハビリの日々が待っていた。
ボールを蹴れないストレスを、体を磨く意欲に変換した。 体幹の左部分などリハビリを通じて弱かった部分を鍛えた。肩甲骨の柔軟性を上げるなど、トレーナーと相談しながら体との会話を続けた。
 焦りがないといったらウソになる。きついリハビリのメニューが連日繰り返しとなると、弱音を吐きたくもなった。だが「馴染みやすい」この環境で一日も早くサッカーをやりたいという思いが、焦りを封じた。

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順調にプロセスを踏んだ。
8月に完全合流し、9月の天皇杯2回戦(対MIOびわこ滋賀)でプロデビューを果たした。続いて、J1のアルビレックス新潟戦にも出場した。

プロのスタートラインに立つことはできた。
しかしながらキレやスピードが戻ったわけではなかった。本当の自分ではなかった。ひざが思うように使えない葛藤、もどかしさがつきまとった。踏み入れたトンネルが長い道のりであることを覚悟するしかなかった。

疑いのない希望に、失意が迫ってくるようになる。
2年目、出場のチャンスを得ても活かすことができない。自分の序列を上げることができない。練習では「蚊帳の外」と感じることが多くなる。

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仲川の重い顔つきが、当時の苦しみを物語っていた。

「どうして(試合に)出させてもらえないんだろうっていう思いはありました。サッカー選手は、試合に出てナンボ。試合に絡めない、練習にも絡めないという時期が長くなっていくと、メンタル的にはどうしてもきつくなっていきます」

J2町田ゼルビアに4カ月間の短期で期限付き移籍し、12試合に出場して3得点を挙げる。試合をこなすことでコンディションを上げていき、少しずつプレーにキレが戻ってきた感触を得ることができた。チューンアップを完了して横浜に復帰。しかしながら3年目の2017年シーズンも立場は変わらなかった。リーグ戦では出番が与えられず、希望と失意の逆転を食い止めるだけで必死だった。

7月。前年と同様、J2への期限付き移籍を決断する。今度はアビスパ福岡。しかし前年と違ったのは悲壮なほどの覚悟であった。

「福岡でしっかりとやって、チームからもう1回戻ってきてと言われるようにしないと、とは思いました。危機感というか、ラストチャンスというか」

一方でひたむきにやってきたことが、ようやくカタチになっていく。
 スピードとキレが「少しずつ」ではなく、納得するものに近づいてきた。チャンスをもらえれば、やれるという自信がしっかりと芽生えるようになっていた。出場を続けた福岡で昇格を果たせなかった悔しさは残ったが、F・マリノスで本当の勝負に臨めるという自分に対する希望が膨らんだ。光が見えた。

なぜ、F・マリノスに戻ることにこだわるのか――。

出場機会が乏しいなら、高く評価するクラブに移籍する選択肢もあるはず。しかし仲川の帰る場所は、ひとつしかなかった。

そこにあったのは、感謝その一心。

「マリノスで結果を出さないといけないという気持ちが一番強かったですね。ああやってオファーをくれたわけですから感謝していますし、恩返しをしなくちゃいけないって、それはもうずっと。歴史あるクラブにいるというプライドもあったし、自分が試合に絡めないとしてもクラブ自体を悪く思うことはなかったので。むしろまだまだ自分の力が足りないんだなって思っていました」

今季就任したアンジェ・ポステコグルー監督のもとでも、ベンチ外が続いた。
しかし、以前のような失意を寄せつけることもなくなっていた。

「新しい監督になって、いずれ1回はチャンスが来ると思っていました。その1回にすべてを懸けてやろうって」

オンリーワンチャンス。
そのときに向けた準備が始まった。重い負荷を掛ける筋トレを始め、練習前も練習中も練習後もやるべきことはすべてやった。ケアは毎日入念に、生活も最大限に注意を払った。日々のコンディションが常に100%であれば、いつチャンスが来てもいい。

  ついにそのときはやってきた。
4月18日、ルヴァンカップのグループステージ、FC東京戦。先発した仲川は水を得た魚のように、ピッチを疾走する。キレッキレのドリブルからアシストが生まれ、爆発的かつ圧倒的なパフォーマンスが指揮官を振り向かせた。

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これを機に、第9節(4月21日)の湘南ベルマーレ戦で今季リーグ戦初出場を果たすと5月2日のジュビロ磐田戦ではJ1初ゴールをマークする。以降、「右サイドの羽」としてレギュラーに定着して、ゴールを積み上げていく。

チームが残留争いに巻き込まれる中、彼はプレーでチームを鼓舞する。
9月29日、ホームのベガルタ仙台戦。前半37分、仲川はボールを受けてドリブルで一直線に進み、ディフェンダーの股を抜いてゴールを挙げた。9月の月間ベストゴール賞に選ばれたこの衝撃的な一発が、チームの快勝劇を呼び込んでいる。


 チームが苦しいときに、助けることができる。彼自身が苦しい思いをしてきたからこそ、何とかしたいという思いも強い。
 ホイッスルが鳴ってから試合が終わるまですべて100%。守備にも一切手を抜かない、あきらめない。ノンストップのハードワークは彼の代名詞。苦しかったことが、今の仲川輝人を形成する。

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「1試合出たから、2試合出たからって気の緩みはありません。この試合がラストチャンスなんだという思いも同じです。全力で戦うということは試合前に意識します。1試合1試合、人生懸ける思いでやっています。それはこれからも変わりません。
練習からすべて全力でやってきて、あのFC東京戦のコンディションにつながった。自分の人生が変わった瞬間でした。一番は腐らないこと。ベンチ外ならベンチ外で、そのときにどれだけやれているかが大事だと思ってやってきましたから」


彼を見守る緑の旗は、いつも語り掛ける。
キミはできる。もっとできる。まだまだできる。

今はまだ感謝の途中。恩返しの途中。
まばゆく輝く人になる、その途中――。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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