まりびと

まりびと まりびと
まりびと 通訳(英語)松崎 裕

通訳は言わば、対象の〝分身〟。ともかく松崎裕はそうあろうとしている。
ドゥシャン ツェティノヴィッチの隣にいればドゥシャンになり、オリヴィエ ブマルの隣にいればブマルになる。

己を通してそのままの言葉をそのままの感情で外に伝える。その対象になりきるからこそ、外からの声も正確に〝もう1人の自分〟に伝えることができる。

〝分身〟、そして〝もう1人の自分〟。

この存在に行き着くために、松崎がマストにするこだわりは何か。
それは常に対象に寄り添い、常に対象のことを想いやること。

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「通訳の仕事というのは本来、サッカーにかかわることだけでいいはず。厳密に言えば、プライベートまではタッチしなくていい。でも、信頼関係を築いていくには、やっぱりすべてにかかわってあげたい。僕は日本に来た外国人選手に1日でも早く日本に慣れてもらいたいし、F・マリノスに馴染んでもらいたい。だから彼らが横浜にやってきた最初の1カ月は、密に過ごすようにしています。ピッチ上で輝いてほしいから、ほかのことであんまり悩んでほしくないじゃないですか」

練習場までのアクセスに始まり、買い物する場所や様々な施設を車に乗ってひととおり説明しておく。言葉や文化が違う以上、困ることが出てくるのは当然。「困ったことがあったら、すぐに電話してくれ」と、夜中であっても対応する。日本の洗濯機の使い方が分からず、呼び出されたこともあった。昨季まで在籍したマルティノスには「トイレが詰まったから大至急来てくれ!」と懇願され、見事に解決している。いつ誰からSOSの連絡が入るか分からないため、松崎はアルコールを口にしない。

「だって僕が駆けつけなかったら、可哀想じゃないですか。自分の自由な時間は確かに制限されるところもありますよ。でも彼らが喜んでくれることが、僕にとっては一番なので」

陽気な人は、そう言って豪快に笑った。

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松崎もまたゴリゴリのサッカー少年だった。

生まれも育ちも鎌倉。両親の仕事の関係で海外も身近な存在で、外交官だった母方の祖父からサッカーを教えてもらった。モロに影響を受けたのが「キャプテン翼」。松崎少年は、翼くんの活躍に勝手に触発されて中学1年時から「海外でプロになる」夢を抱いた。

ポジションはフォワードとトップ下。中学時代は横浜サッカー&カルチャークラブ(現在のYSCC横浜)に通い、神奈川県選抜にも選ばれている。

「カズさん(三浦知良)がブラジルで、奥寺(康彦)さんはドイツ。直感で、じゃあイギリスだろって思いました」

中2時に一度、サマースクールで短期留学したこともあり、中学卒業のタイミングでイギリス初のプロ日本人選手になることを誓った。

前のめりで、行動先にありき。しかし少々リサーチ不足だったようだ。

「欧州ではクラブや地域で選手を育てているのに、日本の高校サッカーをイメージして〝サッカーの強い高校に入ればいい〟と単純に思ったんですけどね」

入学したコッツウオルドのハイスクールには「サッカー部」などなく、それもフットボール違いでラグビーが強い学校であった。

唖然呆然したところで、頼る人は周りにいない。松崎はクラスの担当の先生に「僕はサッカーがやりたい。どこかこの近くでサッカーできるところを紹介してください!」と泣きついた。すると、地元クラブ「フォレストグリーン・ローヴァーズ」のユースチームの指導者に友人がいるという。


すぐにチームに参加させてもらうと、この鼻息荒い日本人選手はメキメキと頭角を現し、2年間のプレーを評価されてトップチーム昇格の打診を受けた。

「ただ、俺はもっと上のクラブに行きたい」

 せっかくのオファーをあっさり断った松崎は、次にFA(イギリスサッカー協会)のバックアップで設立された「ザ・フットボール・アカデミー」への編入を決める。既に入学試験は終わっていたが、本人曰く「5分だけ練習を見てくれとお願いして、そこで合格した」そうだ。ここでは2年のカリキュラムで指導者ライセンスも取得でき、サッカー漬けの2年間を過ごすことになった。

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イギリスでプロになる夢は、徐々に現実味を帯びてくる。

クラブも参加する全国大会でチームは優勝を果たし、松崎も毎試合のように出場していた。また、リバプールやマンチェスター・ユナイテッドなどトップクラブのユースチームとの練習試合も多く、そのため多くのスカウトが観戦に訪れていたという。

あるときリバプールとの練習試合で、「年配のおじさん」に声を掛けられた。試合に出たら、キミを見ておくからね、と。

後半から出た松崎はその試合で1ゴール1アシストをマークする活躍を見せた。試合後、監督から部屋に呼ばれると、そのおじさんが待っていた。実はリバプールのスカウトだった。ずっとマークされていたことをここで知った。鳥肌が立った。

「この書類に目を通してほしい」

 そう言って差し出されたのがトップチームの契約書だったという。松崎は目を疑ったが、書面には確かにそう書かれてあった。

だが、話はこれ以上進まなかった。「ザ・フットボール・アカデミー」はイギリス国内からプロを目指す選手を集めていたため、松崎もイギリス国籍を持っているとどうも思われたようだ。イギリス国籍を持っていなければ、フル代表での75%の出場率など労働許可証取得の高いハードルがある。

そんな条件があること、つゆ知らず。ショックは大きかった。しかし松崎は、とにかく切り替えがメチャクチャ早い。目標をすぐに「日本でプロになって代表に入って、イギリスでプレーする」に軌道修正する。
もう20歳になっていた。

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以前、松崎のうわさを聞き付けた日本のクラブから帰国時の練習参加を打診されたことがある。それがF・マリノスだった。1997年、17歳のとき。中村俊輔がルーキーで、井原正巳、川口能活、松田直樹、城彰二とそうそうたるメンバーがそろっていた。わずか4日間の参加ではあったものの、あだ名までつけられるほどにみんなに可愛がられた。

「行くなら、F・マリノスがいいな」とは漠然と考えていた。だが日本に帰国してJリーガーになるべく個人トレーニングを積んでいた際、ひざの大ケガに見舞われてしまう。リハビリから復帰後に、横浜をはじめいくつものクラブに練習参加させてもらったが、どこからも獲得の声は挙がらなかった。切り替えのメチャクチャ早い人は、Jリーガーになることも、代表に入ることも、そしてイギリスでプロ選手になることもスッパリとあきらめた。

そんな折に、JFA(日本サッカー協会)から連絡が入る。「ザ・フットボール・アカデミー」に在籍していたことを知り、コンタクトを取ってきたのだった。

「キミはサッカーも分かっているし、英語もできる。通訳をやってみないか」

それが2001年、トリニダード・トバゴで開催されたU-17ワールドカップでの日本代表の通訳だった。そこでの仕事ぶりが評価され、小倉勉(現、横浜F・マリノス スポーツティングダイレクター)の紹介で今度はジェフユナイテッド千葉のジョゼフ ベングロシュ監督の通訳を務めることになる。その任務を終えて再びJFAに戻った後、大分トリニータでは半年間コーチを務め、ハン ベルガー監督はじめスタッフ、選手の英語通訳を2シーズン担った。

通訳の仕事は、外国人スタッフ、選手の言語が変わってしまえば契約を終えることが少なくない。大分を離れた松崎はスポーツエージェントの会社を経て、「いつかやりたいもう1つの夢」と描いていた地元鎌倉でのカフェ経営にチャレンジする。

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「鎌倉って観光客が多いので、地元の人がゆっくりできる憩いの場があったほうがいいんじゃないかと思って」

前のめりで行動先にありき。しかし今度はしっかりとリサーチした。近くのカフェどころか日本でも珍しいグリーンスムージーや高級コーヒーを目玉にして、大きな反響を呼んだ。「テラスハウス」のロケで使われ、ドラマ収録の休憩で某有名女優もよく通ってくれたという。

だが3年間のテナント契約を終えて更新のタイミングで今度はF・マリノスから連絡が入った。シティフットボールグループ(CFG)との連絡、サポート業務での打診だった。

カフェを経営しながらも、いつもサッカーのことは頭にあった。それも練習に参加させてもらった思い出もあるクラブからの打診。2014年、彼は店をたたむ決心をし、F・マリノスのスタッフになることを決めた。

「周りの友人からも、カフェやっているとき以上に輝いているよって言われたことがうれしかったですね。もちろんカフェも楽しかったです。でもサッカーに携われることが自分にとっては一番なのかもしれませんね」

マルティノスが加入したタイミングで松崎は選手の通訳として現場に復帰する。ミロシュ デゲネク、ダビド バブンスキーも担当し、24時間、彼らをサポートする生活が始まった。クラブを離れた選手が今でも友人であることに変わりはない。

「僕も海外に出て、いろんな人に助けてもらった。それなりに不安もあったし、大変なこともありましたから。だから異国に来る人の気持ちは多少なりとも分かるつもりです。日本のことがいつでも最高の思い出であってほしい。楽しいエピソードが1つでも多いほうがいいじゃないですか。通訳の仕事は、楽しいです。この仕事は長く続けたいです」


愛称は、ゆっち。
きょうも陽気なテンションで、ドゥシャンやブマルに語りかける。
いつも前のめり気味のゆっちが、チームの明るいムードを引き出している。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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