まりびと

まりびと まりびと
オリヴィエ ブマル選手

 陽気なオリヴィエ ブマルは、スマイルを忘れない。
 雨の日も、風の日も、苦しいときも、くじけそうになるときも。レフティーの快足ミッドフィルダーはそうやってサッカー人生を歩んできた。

 サッカーは楽しい。岐路に立たされたら、ボールを蹴る喜びを胸に宿せばいい――。
 常に明るく、常に前向きに。
 横浜F・マリノスの一員となっても、それは変わらない。

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 ブマルは1989年 9月17日、カメルーン第2の都市ドゥアラで生まれた。商業都市のこの地は日本でもおなじみのパトリック・エムボマ、サミュエル・エトーら偉大なカメルーン代表たちの故郷でもある。
 物心がつくころから、サッカーに熱中した。

 「毎日、裸足でボールを蹴っていました。友達とみんなでボールを蹴っている時間が何より好きでした。サッカーをやっていると、ほかのことを忘れてしまうほど。母から頼まれた用事をすっぽかしてしまい、こっぴどく叱られたことを覚えています。将来、サッカー選手になりたいと自然と思うようになっていました」

 少年の頃のヒーローは、ロジェ・ミラだった。
 「不屈のライオン」と称されるカメルーン代表は1990年のイタリアワールドカップでアフリカ史上初めてベスト8に進出した。一度引退しながら大統領の〝直電〟で復帰して大舞台で活躍したミラは国の英雄になり、ブマル少年はいつかカメルーン代表のユニフォームを着て、ミラのように活躍することを「夢の先の夢」として胸に抱いた。

 7人兄弟の末っ子のブマルは厳しくも温かい母のもとで明るく、元気に育った。6歳のときに父を亡くした。生活は楽だったわけではない。教師を務める母はそれでも子供たちに寂しい思いをさせないよう、いつも寄り添ってくれた。そんな母・アントネットさんがいつも言ってくれる言葉があった。

 「100%の幸せをつかもうとしなくていい。50%の幸せをつかもうとしなさい」
 「信じる心を持ちなさい」

 サッカーシューズがなくても、サッカーをやれるだけで幸せだった。50%の幸せを100%の幸せに感じることができた。遊びの範疇とはいえ、夢に向かって一生懸命にボールを蹴る毎日を送った。

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 一家に転機が訪れるのはブマルが12歳のころ。
 フランス・パリに働きに出て仕送りを送って生活を助けてくれていた兄、姉の勧めもあって全員でパリに移住することを決めた。

 ブマルは学校のサッカークラブに入り、キャプテンを任された。不慣れな環境でもいつも陽気でいると、案外うまくいった。心配した姉が学校を訪ねてくれたことがあったが、安心してくれたという。そして面談した担任の先生は姉にこう言った。
 「オリヴィエはとてもサッカーがうまい。上のレベルでやらせることを考えてはどうか」

 家族会議の結果、末っ子はパリから離れたスポーツ学校への転校を決める。寮生活になり、練習のない土日だけ自宅に戻るという生活に変わった。家族に会えないことは寂しかったが、毎日サッカーだけに真剣に取り組める環境がそこにはあった。メキメキと実力を上げていった。

 運命を変える出来事が起こる。
 16歳になり、パリ・サンジェルマン、リヨンのアカデミーと試合をする機会があった。フランス各クラブのスカウトが集結していた。ブマルの躍動するプレーは、彼らの目に留まった。身体能力と柔らかい身のこなしに、リヨン、モナコ、レンヌ、サンテティエンヌからアカデミーの誘いがあった。
 再びの家族会議の末、サンテティエンヌのアカデミーを選ぶ。憧れるロジェ・ミラがトップチームでプレーしたクラブだ。

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 「漠然とした夢だったものが、はっきり現実としてプロを意識するようになりました。信じる心を持って取り組んでいけば、プロに近づけるんだと」

 明るく、陽気に。
 充実のアカデミー生活を終え、スペイン2部のチームとプロ契約を結ぶ。18歳のときに交際していたソフィアさんと結婚する。そしてカメルーンU-20代表に選出され、2009年にエジプトで開催されたU-20W杯に出場した。世代別の大会とはいえ、「夢の先の夢」であった代表のユニフォームを着て大舞台に立つことができた。
 今もなお感動と興奮は新鮮なまま。ブマルはとびっきりのスマイルをこちらに向ける。

「想像してみてください。6万人の観客の前で、代表のユニフォームを着てピッチに立つ光景を。今まで夢見たことが、現実になった瞬間を。自分のこれまでのキャリアのなかでも1、2を争うほどの最高の瞬間でした」

 2010年にはギリシャ1部パネトリコスに移籍する。2シーズンを過ごし、ルーマニア1部のアストラへの契約も決まる。順風満帆という言葉がピタリとはまるほど、ブマルはサッカープレイヤーとして順調に階段をのぼっていた。

 苦難は突然にやってきた。
 自分を呼んでくれたアストラの監督が加入から程なくして解任されてしまう。ブマルは新監督に評価されず、出場機会の与えられない我慢が続いた。クラブ会長との話し合いによって契約を解除してチームを去ることになったのだ。
 妻は第一子となる赤ちゃんを身ごもっていた。実家のあるパリにまず戻り、プレー先を探すことにした。しかし3カ月待とうが、4カ月待とうが見通しは立たなかった。ブマルからスマイルが消えた。不安な日々を過ごした。生まれてくる子供のためにも無職のままではいけない。サッカーとは別の道を進むことを考えていると、妻に伝えた。すると彼女は諭すようにブマルの目を見て言った。

 「あなたにとってサッカーはすべてでしょ。子供のころにサッカーボールを蹴った喜びを、もう1度思い出してほしい」

 その言葉に、ブマルは初心を取り戻した。
 100%の幸せをつかまえようとしなくていい。信じる心を持て。妻の言葉に、母の教えが重なった。

 ブマルは動いた。パリに戻って半年後、フランスの4部チームに入った。条件も良いとは言えない。プロとアマが混在するチームだけに「みんなのマインドにばらつきがある」難しさもあった。それでも陽気にブマルは振る舞い、ボールを蹴る喜びを感じるようにした。

 「努力を続けていけば必ず報われると信じていました。母、兄や姉のサポート、妻のサポート。そして神が私をサポートしてくれました。私は家族に、神に感謝の気持ちを感じながらサッカーに打ち込んでいきました」

 ブマルの頑張りは報われる。
 ギリシャ2部のチームから声が掛かり、半年間の契約を勝ち取ることができた。もしここで活躍できなかったら、キャリアを終えることになるかもしれない。悲壮なチャレンジも、楽しもうとした。

 「もう1000%のモチベーションでした。死に物狂いでプレーして、結果にこだわった。周りからは〝しばらくプレーしていなかった選手なのか〟と驚かれたほどでした」

 ギリシャ1部パニオニオスに移籍して、ここでも活躍を果たす。そして2016年、ギリシャの名門パナシナイコスにたどりついた。念願のカメルーンA代表入りも果たす。一度、サッカーをやめようと思った男は見事にはい上がってきたのだった。昨年は中国スーパーリーグの遼寧宏連(2018シーズンは甲級リーグ)から高額のオファーが届き、アジアに渡った。そして今シーズン、次のオファーを待っていたタイミングで横浜F・マリノスから声が掛かった。

 アンジェ・ポステコグルー監督のことはよく知っていた。昨年のコンフェデレーションズカップで指揮官率いるオーストラリア代表と対戦し、その攻撃的なスタイルに感銘を受けた。だから直接、監督から電話で誘いを受けた際、迷いは一切なかったという。

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 「オーストラリアでやっていたサッカーも知っているし、アンジェ監督からF・マリノスでのチャレンジや目標を聞いて、僕も参加したいとすぐに思った。言葉にするなら、100万%のモチベーション。自分の成功よりも歴史のあるこのクラブの成功を願って、僕はここにやってきた。はっきり言わせてもらうが、日本に来た理由はオカネじゃない。アンジェ監督のもと、チームの成功を一緒に成し遂げたい。それだけです」

 100万%のモチベーションに偽りはない。ボールを蹴る喜びと、F・マリノスでのチャレンジがブマルを奮い立たせている。

 「簡単な人生なんて送れない。そのことは良く分かっているつもりです。信じる心を持って、やり切る。自分がやってきたことは間違っていなかったと思えるし、それはこれからの人生でも変わらない」

 微笑みのレフティーが、スタジアムのピッチを疾走する――。

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二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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