まりびと

まりびと まりびと
日産自動車サッカー部初代監督 安達 二郎

 貴賓席の片隅で、一人ひっそりと。
 眼鏡を掛けた78歳の老紳士は、いつも日産スタジアムで横浜F・マリノスの試合を眺めている。それが自分の責務だと言うように、視線を優しくピッチに傾ける。
 「僕はファンのみなさんの目線に立って、一人のスタッフのような感覚で試合を観ています。Jリーグが開幕した年にニッサンモータースポーツインターナショナル(愛称ニスモ)の社長になって以降マリノスと直接関わることはなかったですけど、試合を見るだけはしっかり見ておきたい、と。ニスモのときは忙しくてあまり見られなかったんですよ(笑)。でもこうやって多くのお客さんが来てくれるのは、本当にうれしいです。ファンの方に『安達さーん』って声を掛けてもらうこともあるんですよ」
 〝見届け人〟の名は、安達二郎。
 横浜F・マリノスの前身、日産自動車サッカー部を創設し、名門クラブへと発展していく基盤をつくった功労者である。

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 部が産声を上げたのは、45年前の1972年4月1日だった。
 それからさかのぼること10カ月、日産自動車の横浜事業所に勤務していた安達は本社に呼ばれ、「日本リーグに入れるようなサッカー部をつくらないか」との要請を受けた。浦和高時代に全国優勝を経験して東大サッカー部でも活躍して主将を務めた彼は、横浜工場のサッカー部(横浜サッカー部)に所属し、社内の工場対抗サッカー大会を開くなどしていたために白羽の矢が立ったのだった。
日本リーグ(JSL)に上がって、日本一のチームにする。
 壮大な野望を胸に、安達は早速チームづくりに着手した。まずは神奈川県2部リーグに身を置く横浜サッカー部から引き継ぐ形にするため、大部分の部員に辞めてもらう必要があった。別の部にしてしまうと、下部のリーグから始めなければならなくなるからだ。
 「部員のみんなに事情を説明していき、『分かった』と引いてくれました。そして『強いチームになるんだったら』と応援してくれるようになっていきました」
 次に有望な選手を迎え入れなければならない。
 東大の大先輩、竹腰重丸(元日本代表監督、東大教授、2005年に日本サッカー殿堂入り)のもとを訪れ「チームの核となる人材は技術より人柄で選べ。頭でっかちの大卒チームをつくらぬこと」と助言を受けた。
 その教えどおり、安達は同郷の浦和市出身で立教大の主将を務めた鈴木保(元日本女子代表監督)を誘い、また九州から北海道まで足を伸ばして高校生の選手をスカウトした。社員選手になってもらうという条件。しかし企業がサッカー部を中途半端に投げ出す事例もあったために、「どうせ長続きしないでしょ」と相手にされないことも少なくなかった。

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 スカウト業、マネージャー業、そして初代の監督でもある。一人で何役もこなさなければならなかった。
 「会社の人事部はサッカーをやれと言っても、選手を預かるのは各職場です。その職場の上司に理解を得ることは大変でした。それに新子安のグラウンドを確保するのもひと苦労。社会貢献活動で地域にも提供していたので調整が難しかったんです。その折り合いで担当者がうるさく言ってくるので、ならば、とのちにマネージャーになってもらったんです」
 石だらけのグラウンドを全員で整備するところから始まった。監督と言っても会社との調整などでグラウンドに出られないこともしばしば。現場を鈴木に任せるなど対応してきたが、ドタバタの毎日が続いた。チーム発足から1カ月後には、「練習に行きたくない」という選手たちのボイコット騒ぎも起こった。電球がぶら下がった寮の一室で、一人ひとりを納得させていった。
 暗中模索。明日がどうなるかも見えない。
 それでも安達はチームづくりを辛抱強く押し進めて、2年間で県1部を無敗で優勝するまでに引き上げた。そしてまた関東、関西名門大学のキャプテンやマネージャーなど、チームの柱となるような人材を確保するなどして組織の基盤もつくった。しかしいつまでも何足もワラジを履いていては、日本一のチームをつくれやしない。次の段階に進むときが来た。

 安達の強みは、東大サッカー部のネットワークである。
 日本代表の監督を務めた岡野俊一郎(日本サッカー協会会長)に相談。日本サッカー協会のツテでヤンマーサッカー部のコーチを歴任し、次のステップを目指す加茂周と運命の出会いを果たすことになる。年齢も同じ。一緒に夢を追っていくにはこれ以上ない指導者だとすぐに確信を持った。
 「それまでのサッカーはキック&ラッシュ。でも加茂さんは〝サッカーは美しくあれ〟という考えの持ち主でした。紹介された日に自宅に招いてもらって、もう痛飲ですよ。僕も日産サッカー部の将来について、熱く語りました。加茂さんは他の企業からも声が掛かっていたようです。でも日産を選んでくれました」
 驚いたのは、契約条件だった。
 安達としてはもちろん「社員」として迎えるつもりだった。だが加茂は「プロ契約」を申し入れてきた。
 「退職金は要らないし、成績が悪ければどうぞクビにしてください、と。当時は日本人指導者でプロはいなかった。ああこの人は本物のプロだなって思いました」
 74年に日本サッカー史上初のプロ監督、加茂周監督が誕生。安達は裏方に回った。戦力外になった選手への退部通告などは人に任せず、誠意を持って安達自らが対応した。
 「嫌な仕事でしたけど、チームを強くしていくためには避けられないこと。泣かれたり、選手のお母さんから手紙をもらったこともありました。会社を辞める人もいましたけど、残ってくれた人とは今でもずっと関係が続いています」

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 加茂に委ねたチームは順調に結果を残していき、77年にJSL2部昇格、そして創設から7年目の79年に入れ替え戦に勝利してJSL1部昇格を決めた。
 忘れられない一番の思い出が83年度の天皇杯初制覇である。
 決勝の相手は加茂の古巣ヤンマー。釜本邦茂の引退試合としても注目されたこの一戦を、2-0で快勝した。「日本一のチーム」になった瞬間だった。
 金田喜稔、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一など若きタレントが躍動した。「点を奪われても、それ以上に取り返す」日産の攻撃スタイルは日本サッカーに新時代の風を吹かせた。
 安達が述懐する。
 「あれほど嬉しい瞬間はなかった。日産サッカー部は僕が点をつけて、加茂さんがそれを線にしてくれました。スカウトするときでも加茂さんは颯爽とフェアレディZで駆けつけて〝俺もいつかは乗りたいな〟と選手の気を引くのも上手でした。日産サッカー部の歴史をつくってくれたのは加茂さんなんです」
 加茂には全面的な信頼を寄せていた。
 「あんまり2人の間では、何をするにしてもあまり会話はいらなかった。お互いのことは分かってましたから。まあ、あうんの呼吸というヤツですね」
 安達はそう言って、優しく笑った。

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 日産サッカー部は加茂のもとで日本サッカー史上初のプロ選手「木村和司」を誕生させるなど黄金期を築き、 Jリーグが開幕してF・マリノスへと引き継がれている。立ち上げからずっとチームを眺めてきた安達に「今」はどう見えているのだろうか。
 「僕が日産サッカー部と言う点を作り、加茂さんが点をつなげて太い線を引いてくれた。マリノスになってからそれは面になり大きく広がりました。でも残念ながらまだ立体になっていないんです。立体とは、横浜のファンが心を一つにして応援できる空間、互いに寄り合い、語り合えるクラブ、日産時代からの輝かしい歴史を伝承し、子や孫に語り継げる場所……そういうものが、ここにはありません。先輩として一言申し上げるとしたら、やはりクラブの〝故郷〟というものがなくてはならないと思っています。そうなれば横浜F・マリノスは永遠の存在になっていくのではないでしょうか」
 11月18日、ホーム最終節のセレッソ大阪戦でも貴賓席の片隅に安達の姿があった。「マリノスを日本一のチームにする」は脈々と受け継がれてきた伝統であり、哲学である。
 愛情と叱咤激励の視線。
 それはピッチに、クラブに、いつも向けられている。

二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人~松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

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